生き て いる ヒモ。 ウイルスは生物か非生物か 難しい「生きている」の定義:朝日新聞デジタル

生きている価値のない人へ。

生き て いる ヒモ

生きているとは 「」>「」> 「生きているとは」 生きているとはどういうことであろうか。 生きているとは何かということは、生物とは何かということであり、つまり生物と言われるものの持つ特有の性格とはどんなものなのかということであろう。 そしてそれは、生物と無生物あるいは生と死ををどのように区分するのかということでもあるであろう。 まず、一般的に生物の特性と言われるものについて考えてみる。 ひとつには自己維持ができるということがある。 しかし、これを生命維持ができるということとして捉えるならばどうであろうか。 このように捉えると、それは生きているということを前提として、それを維持できる能力があるということであろう。 しかし、この場合は既に生が前提されており、直接生きていることがどういうことなのかという答えには結び付きそうにもないように思える。 ただ、例えばこれを外界からの自己維持に対する負の影響に反発することとして捉えるならば、生きているということが何かということの答えに何らかのヒントを与えてくれそうにも思える。 また、自己増殖できるというのも生物の特性である。 しかし、これができなければ生物でないとは必ずしも言えそうにない。 例えば交配可能な近縁の異種生物間の子供は、生殖能力のない(雑種不稔性の)生物になることもあるが、このような生物を生きていないとは言いにくいように思える。 このような生物も、例えばひとつひとつの細胞を見れば自己増殖をしていると言えるかもしれない。 しかし、ひとつひとつの細胞は生きているがそのような生物全体としては生きていないなどと言えないであろう。 他には、現在生物は様々な環境に適応して生きていおり、進化するというのも生物の特性のひとつとして考えられている。 しかし、太古からほとんど進化をしていないように見える生物もおり、進化していない間は生きていないなどとは言えないであろう。 では、生きているということの根本は何処にあるのであろうか。 ここで、我々がどのようにして生物を判断しているかを考えてみる。 日常的に、我々はあるものについて生きていると判断するのは、「動いている」ということによるのではないだろうか。 例えば、我々は犬や猫が動かないのを見て死んでいるのではないかと思う。 また、動いていれば当然生きていると思うであろう。 つまり、自分勝手に動き回らないものとしての無生物と生物、あるいは死と生を区分しているということであろう。 しかしこれは、動物を対象として見た場合のことであろう。 より広い意味でいうと、「変化している」ということが判断基準となるのではないだろうか。 例えば我々は、植物が成長していたり花や葉や実を付けていたりするのを見て生きていると思うだろう。 では「変化する」ものは全て生物と言えるであろうか。 もちろんそんなことはない。 例えば、風が吹けば木の葉は空に舞い上がり飛んでいくし、岩は川を流れていけば角が取れて丸くなり、物を落とせば壊れて形が変化することもある。 しかしそれらを我々は普通、生物とは言わないであろう。 それでは我々は、何を以って無生物と生物を分けているのだろうか。 おそらくそれを必然や偶然に変化するもの、あるいは他者からの要因で変化するものと、そうではないものとして判断するのではないだろうか。 つまり「<自ら>変化する」ものとして生物を理解するのではないかということである。 では、「自ら変化する」とはどういうことであろうか。 まず、<自ら>ということは自己の範囲の特定が必要ということであり、自己と外界を何らかの形で区分できることが必要であろう。 つまりそれは、世界の分割可能性が前提とされるということであり、更に内界と外界の存在を前提とするということであろう。 そして、自ら変化する為には、変化(行動)する為の能力(機関)が必要なのは当然であろう。 しかし、その前にその行動を決定する能力も必要であろう。 もしそうでなければ必然(あるいは偶然)の変化であり、自ら変化するとは言えず、無生物との区分は不可能になってしまうのではないだろうか。 そして、その為には何らかの指向性としての意志(いわゆる人間のいう意志とは必ずしも同じではないにしても)というものの想定が必要になりそうに思える。 つまりそれは、何らかの指向性がなければ、必然や偶然ではなく決定すること自体が不可能になってしまうであろうからである。 そして、そのことは世界に複数の選択の余地があり得るということが前提とされているということであり、世界が完全には決定論的ではないことが要請されるということでもあるであろう。 また別の見方をすると、その他の自然物や自然現象についてとは違って、生物に関して考えようとしたとき、目的というものを想定せずに考えることができるであろうかという問題があるように思える。 例えば、循環について考える場合でも、例えば地球上の水の循環については、簡単に「地表面上の水分が熱によって蒸発して水蒸気になり、それが大気中の埃などと結合して雲になり、気圧や温度の変化などにより雲から雨が降って地表面上に戻っていく。 」というような説明もひとつの答えとして完結していると言えるかもしれない。 もちろん生物以外の自然物及び自然現象についても、その目的を考えるという捉え方もあるであろう。 しかし、この場合は生物と無生物との区分が不可能になってしまうのではないだろうか。 つまりこのように捉えるなら、生きているとは何かという問い自体が無意味なものとなるであろう。 これに対して、例えば人間のの血液の循環について考えたときは、「心臓がポンプの役目をして血液を動脈に送り、静脈では逆流を防止する弁の効果もあり、筋肉の運動によって血液を心臓に送り戻す。 」というような説明だけでは不充分に思えるのではないだろうか。 それに加えて、例えば「その血液の循環は酸素や栄養素などを体の隅々まで送る為である。 」というような目的論的な説明が必要であるように思える。 そして、そのような目的を達する為のものとして、変化(行動)や体の部分あるいは全体を解釈するということであろう。 つまり、生物の場合それぞれの部分やそれらの部分的な関係からだけの説明では、全体としてのあり方に対する意味ある説明は不可能であるように思え、全体としての結果から見える合目的性という説明が不可欠であるように思えるということである。 それは、生物とは普通、ある機能を持った全体として捉えられるものであるということであろう。 しかし、生物の場合も、決定論的なもの(例えば物理や化学など)だけで説明することが全く不可能であるということではないかもしれない。 例えば、最初に何らかの(確率的)偶然から自己維持や自己増殖のような能力を獲得したものが生まれると、それ以後の様々な刺激がそのような方向で変換されて変化していく過程の中で、よりそのような性格を強化する方向へと必然的に向っていくというようなことは考えられるかもしれない。 そして、我々は結果的にそこに何らかの目的や意志を勝手に見出しているだけと言えるかもしれない。 ただ、このような捉え方をすることは、無生物と生物を区分する術を失うのであり、生物を語ることは不可能になってしまうのではないだろうか。 つまり、生物(の行動)について(無生物と区分して)考えようとする場合このような目的という指向性を示すもの(意志)を想定する必要があるように思われる。 このように考えると、先ほどの、自己維持できるという生物の特性も、必然的な自己の維持に対する負の影響に反発する指向性(意志)を持つと捉えれば、「自ら(自然・必然ではなく)変化する」という意味で生きていると言えることになるのではないだろうか。 また、生物の特性としての挙げた自己維持・自己増殖・進化は、どれもより長く生きるという目的(意志)の為の特性として捉えることができるかもしれない。 もしこのように捉えるならば、生物の目的(の少なくとも最も主要なもの)は、より長くあるいは永遠に生きることであるように見えると言えるかもしれない。 では、その意志とは何処にあるのであろうか。 例えば、もし生物を機械のようなものとして捉えるとするならば、その創造主の意志(あるいは何らかの全体意志)というようなものを想定する必要があるだろう。 つまり、生物は何らかの合目的性を持って創られたということであり、そこに無生物との差異を見出そうということであろう。 もしそのように捉えるならば、それは「生きている」のではなく、「生かされている」ということになるであろう。 もちろん、そのように捉えることも可能であろう。 ただ、もしそうだとすると我々はそのようなものに操られているだけであり、個体の意志というものは否定せざるを得ないのではないだろうか。 しかし、我々は確かに何かを(それが何であるかは別にして)感じているように思えるが、それを完全に否定することができるであろうか。 また、何らかの指向性を持たずにはっきりと何かを感じることができるであろうか、という疑問も生まれる。 そして、ここでは生物とは「自ら変化する」「生きている」ものとして捉えた。 もしそのように考えるならば、意志も自己の中にあるとすることになるだろう。 そして更に、生きているとは「自ら変化する」ことであるとすると、自ら意志決定をする為には、それをするのに必要な情報を得る能力も自己の内に必要なはずである。 もしその能力がなければ、全く適当な決定を行うしかなく、指向性を持った決定を行いようがなくなってしまうであろう。 例えば、動物ではどんなに下等と言われるものでも、食物の場所が分かる能力は不可欠であろうし、植物にしても光合成をする為に光の方向を知る能力や、地面に根を張る植物なら茎(幹)や根を的確に伸ばす為に鉛直方向(重力の方向)を知る能力が必要であろう。 そして意志決定する為には外部的な状態だけでなく、内的なつまり自己の状態に対する情報も当然必要であろう。 そうでなければ、どのような決定が自己の目的にとって有意義かの判断ができないであろうし、そうでなければ自己維持もできないであろう。 以上見てきたように、生が何かということへの根本的な回答というのは困難であるように思える。 ただ、生を問うということは、生物と無生物あるいは生と死を区分しようとする我々の意志の現れによるものであるということは言えるのではないだろうか。 そして、そのような意志を否定することは、自己を否定することでもあり、主体としてはその存在を肯定せざるを得ないように思える。 つまり、生きているとは、意志というものの存在を自明とすることを前提として「内外の情報を得る能力と意志(目的)を持ち、それを意志決定し表出(行動)できる状態のこと」であり、生物とは「そのような能力を持つもの」であり、また死とはそのような能力を失うことと捉らえられるのではないだろうか。 これは完全に根拠の循環である。 しかし、意志の存在を自明とすることによって、辛うじて我々は(自分で)生きているということができる得る根拠を持ち得るのではないだろうかということでもある。 また、生きているとは「自ら変化すること」であるとして、ここでいう変化とは表出(行動)だと考えると、上述の定義の前半は「自分とは何か」に対する答えになっているとも言えそうである。 つまり、精神的領域における自分とは「内外の情報を得る能力と意志(目的)を持ち、その意志決定をすることができるもの」であるというのがひとつの答えになるかもしれない。 そして、逆に意志というものの存在を自明としてこそ、自分というものの存在を保証できると言えるのではないだろうか。 そういう意味では、生物とは「自分を持ったもの」とも言えるかもしれない。

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生きること、生きているということ

生き て いる ヒモ

ウイルスは生物なのか非生物なのか、ウイルスは生きているのか。 この問題は深入りしようと思えばいくらでも深入りできますが、簡潔には生物をどう定義するかによります。 専門家の間でも議論があるところで一つの正しい答えはありませんが、「ウイルスは生きているか?」という問いは、答えそのものよりも、答えを考える過程のほうが面白いです。 明らかに生きているものや、逆に明らかに生きていないものの例を挙げるのは簡単です。 私たち人間は生きています。 私が原稿を書いているこの部屋には猫がいて、機嫌がいいときには膝に乗ってきますが、明らかに生きています。 歌の歌詞にもあるようにアメンボやミミズも生きています。 一方、石は生きていません。 石は無機物だから生きていないのは当然と思われる方もいらっしゃるでしょうが、木製の机はどうでしょう。 セルロースが主成分で有機物ではありますが、机は生物ではないですね。 人間やアメンボは動きますが石や机は動きません。 しかし、「動くかどうか」で生きているかどうかを判断する方法はざっくりしていて反例はいくらでも見つかります。 うちの庭には小さな畑があり、エダマメを育てはじめました。 植物も(枯れて死んでいなければ)生きていますが、たいていは動きません。 一方、自動車は動きますが生物ではありません。 生物学にお詳しい読者の方は、(1)自己複製する、(2)細胞で構成されている、(3)代謝を行う、という一般的な生物の定義をご存知かもしれません。 この定義によれば、ウイルスは自己複製を行いますが、細胞を持ちませんし代謝も行いませんので、生物ではなく、よって生きていないことになります。 ただですね、この3条件が生物の定義の最終決定版だとは私には思えないのです 粘菌の中には、多くの核を持つけれども細胞構造を持たないものもあります。 イメージとしては大きなアメーバという感じです。 細胞構造がなくても粘菌は明らかに生物です。 細胞構造ではなく外界と自己が膜で区切られていることが生物の定義とされることもありますが、それを言うなら「エンベロープ」という膜を持つウイルスがいます。 ちなみに新型コロナウイルスもエンベロープを持っています。 アルコール消毒が有効なのはアルコールがエンベロープを効率よく破壊するからです。 代謝も、ウイルスが生物ではない根拠とされます。 代謝とは、たとえばブドウ糖を酸化してエネルギーを取り出すといった、生命活動を維持するための一連の化学反応のことです。 ウイルス粒子は単体ではただのたんぱく質と核酸の塊で、何も化学反応は起きていません。 一方で、たとえば大腸菌は単体でも細胞内でさまざまな化学反応を起こし、適切な環境下で分裂・増殖します。 しかし、肺炎や性感染症を起こす「クラミジア」という細菌は、エネルギーを産生するための酵素を持たず、単独では増殖できません。 他の細胞に寄生しているときだけ、増殖することができます。 自力で代謝できないことを理由にウイルスを非生物とみなすなら、同じ理由でクラミジアも非生物とみなさなければなりません。 別にウイルスが生物だと声高に主張したいわけではありませんが、生物と非生物の境目はあいまいであることがおわかりいただけたのではないかと思います。 もし将来、地球外の生物が見つかったり、自己複製するロボットが開発されたりすると、生物の定義が書き換わるかもしれない、などと想像をめぐらすのも楽しいことです。 <アピタル:内科医・酒井健司の医心電信・その他>.

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まるで“腸”のような 「シワヒモムシ」が、アジを丸のみする姿がキモい…

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過去に何か失敗をしてしまって「トラウマ」になっている 生きていることが恥ずかしいと思う人の心理には「トラウマ」が潜んでいることがあります。 過去、何か大きな失敗などをしてしまい、それが心に引っかかっているのかもしれませんね。 生きていると、誰だって「忘れてしまいたい」という思い出があるはずです。 そのことを思い出すだけで、顔が赤くなったり隠れてしまいたくなるほど、みっともない思いをしたりすることもあります。 普通、たいていの出来事は時間がたつにつれて段々と忘れていってしまうのですが、中には強烈に心に突き刺さってしまう「事件」もあります。 もう思い出すだけでのたうち回るくらい恥ずかしいそんな思いをするようなできごとがあるなら、もう生きているのが恥ずかしくてたまらなく感じてしまうことでしょう。 生きていることが恥ずかしいと思う人は、人知れずトラウマに苦しんでいることが考えられます。 そういう人には無理やり「もう忘れたら」などとは言わず、温かく見守ってあげるのベストな対応だと言えるでしょう。 「みっともない自分」しか見つけることができない 生きていることが恥ずかしいと思う人の心理にあるもの、それは「みっともない自分」を感じている気持ちです。 自分の中に「素敵」なものや「美しいもの」を発見することができずに、嫌な部分ばかりが目についてしまいます。 生きているのが恥ずかしいそういう思いにとらわれている人は、自分に対して自信を持ってはいません。 いつも心のどこかで委縮していて「こんな自分なんて、どこかに消えてしまえばいいのに」などと、卑下してばかりいるのです。 どんな人でも、どこかしらに良い点はあるはずです。 しかし、自己否定が強い人というのは、自分のことを「みっともない」と思い込んでいるので、生きているのが恥ずかしくなってしまいます。 自分の中に「素敵な自分」を見つけ出してあげることが、そういう人には必要なのかもしれません。 しかし、なかなか周りの人の言葉を聞こうとはしないので、いつまでたっても「生きていることが恥ずかしい」という考えにとらわれたままなのでしょう。 体調不良などでやたらとネガティブ思考になっている 生きていることが恥ずかしいと思う人、それは体調不良などが影響していることも考えられます。 身体の調子が悪くて、やけに気持ちが落ち込んでしまうと、ネガティブ思考に囚われてしまい、生きていることが恥ずかしいと感じてしまうのでしょう。 体調が良くないと、考え方まで暗くなってしまいます。 何をしていても鬱々とした気分になってしまい、まるで自分が全く価値のないような、そんな人間に思えてきてしまいます。 そうなると、ネガティブな考えがストップすることができなくなります。 「どうせ私なんて」という思いが込み上げてきてしまって、生きていることが恥ずかしいとかんじてしまいます。 そういう時には上手に気持ちを切り替えることが大切ですが、なかなか上手にいかない時もあります。 まずは体調を整えてゆっくりと休息をとるようにしてみましょう。 そうすれば、段々とネガティブ思考から抜け出すことができて「生きていることは素敵なことだ」と感じるようになるはずです。 色々考えすぎてしまって人生を諦めつつある 生きていることが恥ずかしいと思う人の心理には「諦め」の気持ちがあります。 色々考えすぎてしまって達観してしまうと、人生そのものを諦めてしまうこともあります。 考え事をする時には、深く考えすぎない方がいい場合もあります。 あまりにも真剣に突き詰めてあれこれ思いを巡らせてしまうと、気持ちの逃げ場を奪ってしまうこともあります。 「あれをやってみたい」と思っても、具体的に想像してみると「やっぱり無理だ」となってしまい、そうなるとどこまでも自分の存在が非常にちっぽけなものとなったような気がします。 そのうち「どうせ自分が頑張ったって、何も変わらない」というあきらめの気持ちに代わってしまい、そのうち「そんな自分が生きているのは恥ずかしい」と思い詰めてしまいます。 色々考えすぎてしまうと、生きていること自体が無意味なような気がしてきたりすることがあります。 心が辛くなって生きていることが恥ずかしくなる前に、ほどほどのところで思考を切り替えて、もっとリラックスするようにしましょう。 生きていることが恥ずかしいという気持ち 生きていることが恥ずかしいと思ってしまうのは、きっと誰にもあることです。 ただ、ずっとその気持ちが続くようなら、もしかしたら心が悲鳴をあげているのかもしれません。 身近にいる人が「生きていることが恥ずかしい」というようなことを口にしていたら「そんなことないよ」と答えてあげるようにしましょう。 そうすれば、気持ちを強く持つことができて、前に進んでいく勇気を持てるはずです。 「生きていることが恥ずかしいと思う時どうすれば良いか」への感想コメント一覧 現在のところ、まだ感想はありません。 ぜひ最初の感想を書いてください。

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