稲葉 貞通 が 関ヶ原 の 戦い 後に 封じ られ た の は 豊後 国 臼杵 で ある か か。 稲葉一鉄(稲葉良通)とは 稲葉貞通 深芳野も 西美濃三人のひとり

【ニッポン城めぐりクイズの答え】6/4 稲葉貞通が関ヶ原の戦い後に封じられたのは、豊後国臼杵である。○か×か?

稲葉 貞通 が 関ヶ原 の 戦い 後に 封じ られ た の は 豊後 国 臼杵 で ある か か

県庁となった大分市が、工業都市として大きく発展し、それゆえ空襲でことごとく歴史遺産が破壊されたの比べて、発展の遅れた臼杵の町は、今でも当時の城下町の骨格をとてもよく残しています。 その城下町の骨格には特徴があります。 切り立った崖上にある臼杵城本丸(現臼杵公園)、山の斜面に広がる武家屋敷町とその内側にある町屋町と寺町。 一般的な城下町とは違う構造になったのは、臼杵の地形と歴史が関係しています。 また、町の印象を決めているものに、町の丘陵地にみられる暗褐色の凝灰岩があります。 臼杵城本丸跡の断崖や旧武家屋敷町の二王座には、凝灰岩の露頭と石垣が多く見られます。 臼杵の地形は、この凝灰岩がつくりだしたといえます。 100年前の臼杵 明治大正期の地形図が手に入らなかったので、今回はお休みです。 町の歴史 臼杵に数多く見られる磨崖の石仏たちは、大部分が藤原期(平安後期)の傑作として、全国にその名を知られています。 臼杵の地は、古来から東九州の地方文化の中心地として栄えてきたようです。 この石仏文化を育てた臼杵氏は、平安時代に臼杵荘を開発し一帯に勢力をもっていたようで、やがて京の摂関家・九条家に寄進されて、その保護を受けることになります。 しかし鎌倉後期には、執権北条氏の支配するところとなったようです。 南北朝期に入ると、豊後国守護の大友氏がしだいに領国支配を固めるのに伴い、臼杵荘は大友氏の直轄地に取り込まれ、以来、大友氏がこれを領有していきました。 戦国時代の英傑でキリシタン大名として有名な大友宗麟は、臼杵を府内(現大分市)と並ぶ政治上、軍事上の拠点として、永禄6年 1563 に臼杵城を築城して自らここに移り、キリスト教の保護など進取の政策を積極的に進めたのです。 以降、天正14年 1586 の島津軍の侵入によって、町のほとんどが焼き払われるまでの間、臼杵城下町は明やポルトガル等との貿易港であると同時に、キリスト教布教の中心として、大きな賑わいを見せるようになります。 「フロイス日本史」には、城下町に教会やノビシャド(修道士養成学校)が築かれ、豊後国のローマとよばれるほど華やかな都市であったことが記されています。 島津軍の侵入の翌年、宗麟は津久見で逝去するのと時を同じくして、豊臣秀吉は一転してキリスト教弾圧を開始します。 また、宗麟の子義統は、文禄2年 1593 秀吉により豊後の国を除封され、キリスト教とともに発展した戦国城下町としての臼杵は、ひとつの時代を終えたのでした。 慶長元年 1596 、臼杵は太田一義の所領となりますが、関ヶ原の戦いを経て、慶長5年 1600 、美濃より稲葉貞通が5万石でこの地に入り、以降、15代久通まで270年にわたり、稲葉氏が臼杵藩を治めることになります。 稲葉氏の入封を期に、臼杵は、後背の大野川中流右岸までを含む臼杵藩の政治的、経済的中心として、再び発展することとなります。 臼杵城下町は太田氏と稲葉氏によって拡大されました。 祇園州を城内に取り込んで「三の丸」とし、ここから徐々に北東方向に埋め立てを行い、「洲崎」とよばれる埋立地が形成されますが、城下町の大部分は、中世以来の構造をそのまま受け継いだようです。 明治4年の廃藩置県にともない、この市域は、一時臼杵県となりますが、同年11月には大分県に統合されます。 その後、大分県の中心機能が県庁所在地の大分市に集中していくにつれて、臼杵市の物流拠点としての役割は低下していきます。 大正4年に鉄道が 現日豊本線 が完成した結果、県南の物資は臼杵を素通りして大分市に集まり、さらに豊肥本線の開通はそれに拍車を掛けることになりました。 町の立地条件と構造 臼杵城下町は、大友宗麟が丹生島に臼杵城(現臼杵公園)を建設したことから始まります。 臼杵の地は、阿蘇の火山灰による凝灰岩(ぎょうかいがん)で形成された急峻な山地形と臼杵川が運ぶ土砂が堆積した低地で形成されています。 宗麟は、断崖の要塞丹生島に城を築き、対面する原山の斜面に家臣団を住まわせ、その間の低地に街道、船着場、町人街を整備して南蛮貿易の拠点としたのです。 続く稲葉氏は、町人街(町八町)の北側の低湿地帯を埋めて武家屋敷を拡充し、臼杵支配の基盤を整えました。 江戸期の臼杵城本丸は、断崖に囲まれた孤島であって、この西端にある大手口で陸地とつながっていました。 JR臼杵駅から北側にひろがる現在の中心市街地は浅瀬の海面(または低湿地帯)で、鉄道敷設にあたっては、旧市街地である二王座、平清水の南を大きく迂回して、大分方面に向かうことになったようです。 また、寺町が城下町の外縁部になく、町屋(町八町)と武家屋敷(仁王座)の間に位置している理由には定説はないようです。 大友氏時代の教会など切支丹関連の施設の跡地に、稲葉氏が寺社を再建したため町人がいに隣接して建設されたとか、城下町の内外の区別がなく、原山の尾根筋に漫然と広がる二王座の精神的な押さえとして、この場所に寺町が建設されたとか、さまざまな説があるようです。 町の中心は、高札場であり、街道の結節点でもあった、大手前の辻(広場)です。 津久見道、府中(大分)道、野津道の臼杵を通る主要街道はここを基点としています。 二王座の北麓(いまの切通し)を通っていたのを、大友宗麟が城下町建設に伴い辻広場を通るように付け替えたといわれています。 町屋地区は唐人町、畳屋町、掛町など8つの町で構成されていたため町八町とよばれていた。 町八町のメイン街路は、辻広場を中心に放射状に伸びていて、城下町の道路構成としてはとても珍しいものです。 この辻は高札場でもあり、城主の視線がここを中心に広がるといえ、町人町は常に本丸の視線にさらされたのです。 大友時代、ここを訪れた南蛮人が、この街路計画に影響を与えたのかも知れません。 海岸に面する掛町、唐人町は、南蛮船が荷揚げする船着場だったようで、特に唐人町には、宗麟の時代に到来した明人が、江戸期にも多数居住していたといわれていますが、いま街中をあるいてもその面影はまったくありません。 左:現在の辻広場 中:辻広場から放射状に一直線に伸びる道路 右:断崖上にある臼杵城跡 復元された大手門と畳櫓がみえる 二王座は、原山北麓に広がるかつての武家屋敷町で、隣接する寺町とともに坂の多い景観の変化にとんだ地区を形成しています。 ここには、往時の町並みがよく残されています。 臼杵石とよばれる凝灰岩の石垣や白壁などの土塀に囲まれた屋敷が多く、長屋門もいくつか残され、これらが狭い坂道と見事に調和していて、まるで時が止まったかのような錯覚に陥ります。 阿蘇の火山灰による凝灰岩は、軟らかく加工が容易なため石垣などに使われています。 また、時がたつと暗褐色になるため、石垣が多用された二王座は、重々しく暗い印象を与えます。 二王座の町並み 玄武岩の石垣と坂の小路が特徴的です 左:こんな長屋門がごく自然にある 中・右:切り通しの道にならぶ寺町の寺社 二王座の麓に位置する本町八町大通りは、城下町時代の町並みを再現しようと、アーケードが取り除かれ町屋のファサードが再生されていて、二王座に広がる武家屋敷町と寺町の町並みと合わせて、歴史を感じさせる景観を形成しつつあります。 左:本町八町大通り 中:二王座に建設された臼杵市ふれあい情報センター 右:旧後藤家の長屋門 二王座が中下級の武家屋敷町なのに対して、上級武士の屋敷は埋立地である祇園洲につくられました。 ここは格子状の明快な道路構成をとっていて、祇園州の南西角で船着場の対岸に八坂神社があります。 二王座から西南方向へのびる府中街道沿いの平清水には、下級武士と職人の混住地区が広がり、反対の東南方向へ続く津久見街道沿いは足軽、鉄砲組屋敷などの下級武士の居住地とされていました。 左:祇園洲の稲葉家下屋敷の木塀 中:祇園洲にある八坂神社 右:平清水にある龍原寺三重塔 まちなみ ブックマーク 町を歩いていて気に入った建物や風景をブックマークとして登録しました 臼杵城(丹生島城) かつての大手口から復元された大手門と畳櫓を見上げる。 周囲に高い建物がなかった時代には、テーブルマウンテンのように周囲を断崖に囲まれた丹生島は、威容を見せていたに違いありません。 二王座のある風景 細い石畳の坂道を登ると、突然視界が開け、行き止まりになっている。 この門にはギャラリーの看板がかかっていました。 情報リンク.

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臼杵城跡

稲葉 貞通 が 関ヶ原 の 戦い 後に 封じ られ た の は 豊後 国 臼杵 で ある か か

慶長五年(1600年)9月2日、関ヶ原の戦いの混乱に乗じて 遠藤慶隆に攻め込まれた郡上八幡城が降伏を申し出 ました。 ・・・・・・・・ 天下を取った 豊臣秀吉亡き後に生じた 豊臣家内での家臣の分裂が大きくなる中、上洛命令に応じない 会津 (福島県)の 上杉景勝 (うえすぎかげかつ)の行動を 「謀反」とした豊臣五大老筆頭の 徳川家康が、諸将を引き連れて 会津征伐に向かった留守を見計らって、 石田三成 (いしだみつなり)が挙兵した事にはじまる、ご存じ、 関ヶ原の戦い・・・ 三成の伏見城攻撃を知った家康が、有名な 「小山評定 (おやまひょうじょう) 」で Uターンを決意し、その 先発隊が、東海道を一路西へ向かう中、 美濃 (岐阜県)では、その混乱に乗じて・・・ そう、つい半月ほど前、豊臣政権によって 苗木城 (なえきじょう=岐阜県中津川市)を奪われていた 遠山友政 (ともまさ)が、この 関ヶ原の混乱で城を奪回する苗木城争奪戦のお話をさせていただきましたが、今回の 郡上八幡城 (ぐじょうはちまんじょう=岐阜県郡上市)も、 ほぼ、同じ構図です。 ただしコチラは、秀吉VS 神戸信孝 (かんべのぶたか・織田信孝=信長の三男)+ 柴田勝家 (しばたかついえ)の 賤ヶ岳 (しずがたけ) の戦いの時には、 途中で降伏して何とか助かったものの、その後の 織田信雄 (のぶお・のぶかつ=信長の次男)+家康との 小牧長久手の戦いの時に信雄についたと疑われた 遠藤慶隆 (えんどうよしたか)が、 秀吉に本領を奪われて美濃小原7500石に減知され、その郡上八幡が 稲葉貞通 (いなばさだみち)に与えられていたため、 この関ヶ原において東軍についた慶隆が、西軍に属している貞通が城を留守にしている間に、城を奪回しようと図ったワケですが・・・ そう、この時の郡上八幡城は、城主の貞通が、家康の先発隊が 織田秀信 (ひでのぶ・信長の孫=三法師)の 岐阜城を攻めていた関係から、西軍武将の一人として、 犬山城 (愛知県犬山市)に、その身を置いていたので、留守を守るのは息子の 通孝 (みちたか) 以下、わずかな城兵のみだったのです。 「このチャンスを見逃すまい」と動く慶隆は、早速、家康先発隊の 軍監 (ぐんかん=軍の目付)である 井伊直政 (おおなおまさ)に許可を得て、娘婿である 金森可重 (かなもりよりしげ)とともに戦闘の準備に入ります。 ところがドッコイ、かの 岐阜城の落城をキッカケに、貞通が突然、東軍へと寝返る事態に・・・ 当然ですが、東軍となった者の城を、東軍の武将が攻めるわけにはいかないわけで、徳川からは、 戦闘中止の命令が出たわけですが、それを知ってか知らずか・・・まぁ、やっぱり、 慶隆個人としては、以前は自分の物だった城を、この機会に奪い返したくて、仕方無いわけで・・・ で、結局慶隆は、この9月1日、 金森勢とともに郡上八幡城を攻め立てたのです。 上記のごとく、はなから多勢に無勢なので、郡上八幡城はたちまち窮地に陥る・・・しかも、父がすでに東軍の人となっている事は、息子の通孝も知っているわけですから、翌・ 慶長五年(1600年) 9月2日、 「俺んとこ、東軍なんやけど…」と言いつつ 降伏を申し出た 事で、とりあえずは停戦となります。 濃州郡上図(名古屋市蓬左文庫蔵):郡上八幡城の縄張と周辺を描いた古図 徳川からのその後の指示を待つべく、慶隆は城外の愛宕山に敷いた本陣で一夜を過ごすのですが・・・ それを 「ふ~~ん」と見過ごすわけにいかないのが、城を落された貞通。 「あのアホンダラ!!」 とばかりに、 慌てて郡上八幡に戻って来ますが、上記のごとく、すでに城は落城状態・・・ かくして翌・9月3日早朝、今度は 貞通が慶隆がいた、その本陣を急襲するのです。 その朝は非常に霧が濃く、そのうえ、戦いは終わったと安心しきっていた 遠藤勢は、アッと言う間に総崩れとなり、慶隆はもはや逃げるしか無く、可重の軍と合流した後、翌・4日には、 一応の和議が結ばれ、遠藤&金森勢は郡上八幡から撤退となります。 ただし、一説には、この時の慶隆には油断などなく、戦いはかなりの激戦となって、その後も小競り合いが続いたという説もあります。 とにもかくにも、 この両者の事は、そのまま、本チャンでの関ヶ原に結果に影響されるのは致し方ない事で・・・ で、結局、本番の関ヶ原で東軍が勝利した事で、 慶隆は、もともと持っていた郡上八幡の本領を回復・・・ 一方の貞通は、 豊後 (ぶんご=大分県) 臼杵 (うすき)に 転封となりますが、郡上八幡が4万石だったのに対して臼杵は5万石・・・1万石の加増が、ギリギリのところで東軍に寝返った見返りといった感じなのかしらん?. 申し訳ありませんが、投降されましたコメント&トラックバックは、すぐには公開されません。 一旦、保留し、管理人が確認した後に公開します。 また、次のようなコメントやトラックバックは、公開しない、あるいは排除させていただく場合もありますので、ご了承下さい。 1、このブログの記事内容と 関係ないの内容のトラック バックやコメント。 2、リンクのみで、管理人様 ご本人の記事が見受けら れないサイトからのトラック バック。 3、特定のサイトやショップ等 への誘導・宣伝のみのコメ ント。 4、外国語のコメント(私は日 本語しかわかしません) 5、トラックバックを受け付け ていないサイトからのトラッ クバック。 6、「書き捨てまたは小さな 親切(誤変換や誤字脱字・ 数字の間違いなどの指摘) 以外での「捨てハン」= 「通りすがり」や「名無し」」 などの捨てる用のハンドル ネームや同一人物が投降 毎に別のハンドルネーム を名乗るなどの投稿は排 除させていただく場合が あります。 7、その他、見た人を不愉快 にさせる内容の物。 8、また、同一ブログの同一 記事を複数の記事にトラッ クバックされた場合は、 最初にいただいた物を優 先させていただきますので 一番関連があると思われ る記事にお願いします。 このブログを楽しく運営するためのルールですので、どうかご理解下さいませ。

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稲葉重通

稲葉 貞通 が 関ヶ原 の 戦い 後に 封じ られ た の は 豊後 国 臼杵 で ある か か

春日局は、父が斎藤利三、母が稲葉一鉄の娘。 斎藤利三はの重臣となるが本能寺の変後に捕らえられ処刑される。 春日局は母の父稲葉一鉄の庶長子である稲葉重通(つまり叔父)の養女となる。 この稲葉重通の子で、外祖父の牧村氏を継いだのが牧村利貞であり、その娘がである。 武将として• 稲葉重通は、はじめに馬廻として仕え、1万5000石。 本能寺の変の後、父一鉄や弟らとともに秀吉の家臣となり、馬廻りを務める。 天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いに参加し、その功績で河内国内に知行を加増される。 天正13年(1585年)7月、従五位下・兵庫頭に叙任され、同年8月には一時的ながら姉小路氏滅亡後の飛騨の一国支配を任されている。 天正13年(1585年)、後に享保となる作の刀を磨上げに金象嵌を入れさせている。 後に家康からへと渡り、「」の名で呼ばれることとなる。 天正16年(1588年)に父一鉄が死去するが、家督は嫡男で異母弟の稲葉貞通が継ぐこととなり、庶長子であった重通はこれとは別に美濃清水に1万2000石を与えられ大名となった。 秀吉の晩年には御伽衆となり、慶長3年(1598年)10月3日に死去。 跡を子の稲葉通重が継いだ。 なお異母弟・稲葉貞通の家系は、外様大名稲葉家として代々豊後国臼杵藩を領し明治維新を迎えた。 刀、茶器に「稲葉」の名を冠したものがいくつかある。 稲葉重通:「」• 稲葉道通:「」• 稲葉正勝:「」・「」• 子の稲葉通重は、関ヶ原の戦いでは叔父の稲葉貞通と共にはじめ西軍に属し、後に東軍に寝返った。 そのため、戦後に所領を安堵された。 しかし慶長12年(1607年)12月、天野雄光や津田信成ら数名と京都の祇園で遊んでいたときに、酒乱のために茶屋、後藤などの富商の婦女を強引に茶店に引き入れ酒を飲ます等の乱行を起こしたため、幕命により改易され常陸国筑波に流罪。 清水藩は廃藩となった。 この月伏見にて御家人稻葉甲斐守通重。 津田長門守元勝。 天野周防守雄光。 阿部右京某。 矢部善七某。 澤半左衞門某。 岡田久六某。 大島雲八某。 野間猪之助某。 浮田才壽某等士籍を削らる。 こは京洛の富商後藤并茶屋等が婦女。 祇園北野邊を逍遙せしに行あひ。 ゆくりなくその婦女をおさえ。 しゐて酒肆にいざなひ酒をのましめ。 從者等をばそのあたりの樹木に縛り付刀をぬき。 若聲立ば伐てすてんとおびやかし。 黄昏に皆迯去りたり。 酒肆の者これをみしりてうたへ出ければ。 かく命ぜられしとぞ。 元和4年(1618年)6月、配所の筑波にて死去。 嫡男の稲葉通勝は稲葉正勝の家臣となっている。 「」を所持した。 娘:室• 稲葉一鉄は娘を林政秀の次男の正成に嫁がせて婿とする。 長男・稲葉正次は正室の子であったが、春日局の栄達に従い嫡男の地位は春日局の子・稲葉正勝へと移ってしまう。 のち元和4年(1618年)に徳川秀忠に召し出され5,000石の所領を与えられる。 寛永5年(1628年)、死去。 稲葉正次の嫡男・稲葉正能が僅か3歳であったため、遺領は弟・稲葉正吉( 継々室・与祢の子)が相続するが、正能も後に旗本として召し出され、初の日光奉行を務めるなど活躍し、子孫は旗本として存続した。 この娘が先立ったために、代わりに重通の姪である福(のちの春日局)を嫁がせた。 詳細は「」の項参照• 稲葉本家は稲葉貞通が継ぎ代々豊後国臼杵藩主(外様5万石)となったが、稲葉家としてはこのの系統(正成系稲葉家宗家)が相模小田原藩主~下総佐倉藩主~山城国淀藩主(譜代10万石)として栄えた。 養女:春日局• 父はの重臣斉藤利三。 母は稲葉一鉄の娘、安。 福の父斉藤利三はに従い名を挙げるが、山崎の合戦後近江堅田で捉えられ処刑される。 福は母方の親戚筋にあたる三条西公国に養育された。 天正9年(1581年)9月19日没。 天正11年(1583年)、一鉄は亡妻の三周忌のために歌を詠んでおり、稲葉家譜に記される。 三条西実枝は細川幽斎に返し伝授を誓わせた上で「」を授けた人物。 詳しくは「」を参照。 その後、伯父の稲葉重通の養女となり、稲葉氏の縁者での家臣である林政秀の次男の後妻となる。 夫正成は、関ヶ原の戦いにおいて平岡頼勝と共に主君を説得して小早川軍を東軍に寝返らせ、徳川家康を勝利に導いた功労者となる。 その後福は正成と離婚し、慶長9年(1604年)に2代将軍秀忠の嫡子竹千代(後の家光)の乳母に正式に任命される。 江戸城大奥の礎を築いた人物。 寛永6年(1629年)には、家光の疱瘡治癒祈願のため伊勢神宮に参拝し、上洛して御所への昇殿を図る。 この時に武家の娘では昇殿できないため、三条西公国の息子三条西実条と猷妹の縁組をし、公卿三条西家()の娘となり参内する資格を得る。 福は、「三条西 藤原福子」として同年10月10日後水尾天皇や中宮和子(徳川和子、秀忠の五女)に拝謁し、従三位の位階と「春日局」の名号、及び天酌御盃をも賜る。 寛永9年(1632年)7月20日の再上洛の際に従二位に昇叙し、緋袴着用の許しを得て、再度天酌御盃も賜わる。 よって二位局とも称され、同じ従二位の平時子や北条政子に比定する位階となる。 子:牧村利貞(まきむらとしさだ)• 天文15年(1546年)稲葉重通の子として生まれる。 外祖父が牧村政倫であったことから、政倫の跡を継いで牧村氏を名乗り伊勢岩出城主となる。 の死後、に仕えて馬廻となる。 天正12年(1584年)には高山右近の勧めを受けてキリシタンとなっている。 その後小牧・長久手の戦い、四国征伐、九州平定にも参加した。 天正18年(1590年)、秀吉より伊勢国内において2万650石を与えられた。 茶道に造詣が深く、の一人でもある。 文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役にも舟奉行として参加するが、文禄2年(1593年)7月10日、朝鮮において48歳で病死した。 実子の牛之助は幼少のため、家督は父利貞の弟の稲葉道通が継いだ。 牧村利貞の娘に、おなあ()がいる。 はのち義理の叔母にあたる春日局の導きで大奥に入り、家光に仕える。 のち自身の孫娘であるお振の方を春日局の養女として大奥に入れ、家光の側室とした。 お振の方は寛永14年(1637年)に家光の長女・千代姫(のちに尾張藩主徳川光友の正室)を生んでいる。 関連項目.

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