本田宗一郎 名言 英語。 新日鉄住金の爆発事故で、本田宗一郎の名言「安全なくして生産なし」を思い出した。 (榊 裕葵 社会保険労務士) : シェアーズカフェ・オンライン

【本田宗一郎の名言・格言散歩】成功への道を歩むための発想の秘密

本田宗一郎 名言 英語

世界の自動車会社を一代で作り上げた本田さんの心ふるえる名言です。 日本が生んだ自動車業界の大経営者、本田宗一郎さんの名言です。 困らなきゃだめです。 人間というのは困ることだ。 絶対絶命のときに出る力が 本当の力なんだ。 人間はやろうと思えば、 大抵のことは出来るんだから。 出典: 本田宗一郎 失敗もせず問題を解決した人と、 十回失敗した人の時間が同じなら、十回失敗した人をとる。 同じ時間なら、失敗した方が苦しんでいる。 それが知らずして根性になり、 人生の飛躍の土台になる。 出典: 本田宗一郎 こちらが悪ければ、 悪い人間が寄ってくる。 こちらが信用することによって、 信用される人間が生まれる。 出典: 本田宗一郎 チャレンジして失敗を恐れるよりも、 何もしないことを恐れろ。 出典: 本田宗一郎 「世界の本田」を作り上げた、日本を代表する伝説の創業者。 天性の明るさと、技術に対する深いこだわりを生涯持ち続けた偉人です。 死後も本田さんを愛する人は多く、たくさんの本が出版されています。 学歴は小学校のみ卒業しています。 小卒で一部上場企業を作り上げたのは、松下幸之助さんと本田さんぐらいなものです。 本田さんは高等小学校卒業後の1922年に自動車修理工場「アート商会」 後のアート金属工業 に入社します。 当時の表現では「丁稚奉公」です。 1928年に「のれん分け」の形で独立しました。 その後、社長業をしながら「浜松高等工業学校」 後の静岡大学工学部 機械科の聴講生となり、金属工学の勉強にも励げむようになります。 もちろん授業は、自分の会社に必要な物だけを聞いていました。 1945年に「人間休業」と称して1年間の休養をとった後、翌年に「本田技術研究所 旧 」を設立します。 通称「バタバタ」 友人の家で、たまたま知人から預かっていた旧陸軍の三国商工 現・株式会社ミクニ 製六号無線機用発電エンジンに出会います。 これを見た宗一郎は、これを自転車用の補助動力に使うことを思いつきます。 陸軍からエンジン500台を払い下げを受け補助動力付き自転車を発売します。 補助動力付き自転車は評判となり500台のエンジンも底をついてしまいます。 1947年 昭和22年 7月41歳、hondaA2ストロークエンジンを自社生産とした「MODEL A」を発売します。 通称「バタバタ」と呼ばれヒットします。 当初の生産台数は200~300台でしたが、すぐに1,000台となります。 本田さんはモノ作りはうまいが資金繰りがうまくなく、代金が回収できなくなることもしばしば・・・ そんな中出会ったのが、1949年に後の副社長となる「藤沢武夫」です。 ホンダが世界的な企業になれたのも、「藤沢武夫」がいたからだといわれています。 世界の本田を支えた男、藤沢武雄 本田と藤沢が運命の出会いをしたのは昭和24年8月、焼け跡の残る東京阿佐ヶ谷のバラック小屋だった。 戦争が終わって 4年、人々は貧しい中にも、復興の希望に燃えていました。 「浜松の発明狂」だった本田は「東京に出て本格的なオートバ イを作りたいが、金がない。 」 福島で製材所を営んでいた藤 沢は「夢のある技術を持った男と組んでモノを売りたい。 」 初対面の二人は数分で意気投合し、「モノ作りは本田、カネの 工面は藤沢」と役割分担を決めました。 藤沢はその場で製材所を叩き売って、資金を作ることを決意し、本田と共に大きな夢を追うことになりました。 ここから、藤沢武夫は本田宗一郎に代わり、経営をします。 常にマスコミからは身を隠して来た人物です。 彼の存在と10年、20年先を見越してたてた計画と組織作り無くしては、我々の 知る「世界のホンダ」、「ホンダスピリット」は存在しませんでした。 そこからの経緯は、今の本田をみれば、一目瞭然です。 常に陰から本田を支え、世界一を本気で目指した本田と藤沢は 幾多あるピンチを乗り越え、成長していきます。 常に本田宗一郎氏を引き立て、しかも経営の基盤を作り裏から支えた藤沢武夫氏は昭和48年10月 本田宗一郎氏と共に惜しまれながらの引退します。 本田氏66歳、藤沢氏62歳の若過ぎる潔い引き際でした。 その引き際は、現在でも多くの人々に賞賛され、多くの企業の手本になっています。

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本田宗一郎の名言

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進藤孝生社長は4日、記者団に対し「マネジメントの問題であろうと認識している」と述べ、老朽化や人員構成などの構造的な要因ではなく、同製鉄所の運営面で課題があったとの考えを示した。 「安全なくして生産なし」とは、安全が確保できない状況においては、どんなに生産の必要性があっても生産すべきではないし、どんなに生産効率がアップするような方法があったとしても、それが安全でないならば採用すべきではないという、安全は生産効率やコストに優先する、という考え方である。 実は、私は社会保険労務士として独立する前は、本田技研グループの会社で働いていた。 グループ各社の工場には、「安全なくして生産なし」と書かれた横断幕やプレートが高々と掲げられていたことを覚えている。 新入社員研修のときには、座学でもこの言葉の重要性を教えられたものだ。 そして、不幸にも生産現場で労災事故が発生してしまった場合には、たとえ切り傷や打撲であったとしてもレポートが作成され、社内で閲覧されたり、安全衛生委員会で討議されたりしていた。 徹底的に原因を究明し、再発防止策を施すのだ。 そのレポートは製作所の所長が最終確認を行い、まさに現場からトップまでが一丸となって安全対策に取り組んでいた。 「安全が確保できなければ生産はしない」ということが徹底されていれば、多くの労災事故を防ぐことができるし、万一発生してしまった場合でも、重大な結果につながることを防止することができると私は実感したものだ。 トヨタ自動車グループでも、トヨタ生産方式では、標準作業の徹底を重視するが、これは品質確保だけではなく、作業者の安全の確保にも貢献している。 標準作業を定める際、その作業の安全性も検証がされるからだ。 トヨタ自動車グループの会社で労災事故が起きると、「被災者は標準作業どおりに仕事をしていたのか」ということがまずは調べられるそうだ。 一般に製造業の工場では生産効率が重視され、この製品を1時間に何個生産しなければならない、といったような目標が定められている。 また、消耗品やメンテナンスかかる費用なども予算枠が定められ、厳しく原価管理がなされているのが通常だ。 生産効率が目標値を達成できなければ、叱責を受けたり人事評価を下げられたりするので、現場作業者は安全を犠牲にしてでも、生産効率を上げようとするのが人情である。 また、予算に対しても、数字だけが一人歩きして、「危険な箇所が見つかっても、修繕費が予算オーバーだから見送る」という本末転倒なことにもなりかねない。 つまり、効率やコストを優先した裏返しとして、安全がおのずから軽視されていくということだ。 だからこそ、「安全なくして生産なし」を、現場からトップまでがしっかり認識して、現場がラインを止めたとき、トップは「何故止めたんだ、バカヤロー!」ではなく「なにか危険なことがあったのか?」と声かけをするような社風を作らなければならない。 もっと言えば、たとえ生産効率が一時的に下がったとしても、安全に貢献した人が正当に評価されるような仕組みを経営者が作らなければならないということだ。 現場の人たちが、安全に関する懸念があれば、安心して生産ラインをストップさせ、安全を守るためにはこれだけの生産数しか無理、と言える環境を作ってこそ、労災事故を防ぐことができる。 過去の重大事故を振り返っても、例えばJCOの東海村での臨界事故は、作業手順を無視して効率を上げるために、バケツでウラン溶液を加工していたことが事故の原因であった。 それならば、最初から「安全なくして生産なし」を徹底するほうが、効率面やコスト面においても最善な結果につながるのではないだろうか。 実際、本田技研は「安全なくして生産なし」を現在まで守り続けながら世界有数の企業に成長したのだから、考え方の正しさを証明する動かぬ証拠ではないだろうか。

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偉人 藤沢武夫 名言集|心の常備薬

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生い立ち [ ]• (明治39年) - 11月17日、(現・)でをしていた 本田儀平と妻・ みかの長男として生まれる。 (大正2年) - 光明村立山東尋常小学校(現・浜松市立光明小学校)に入学。 在校中に自動車を初めて見る。 のを見学するため、遠く離れた浜松町和地山練兵場まで自転車を三角乗り で訪れ、飛行機を初めて見るなどの経験をする。 (大正8年) - 二俣町立二俣尋常高等小学校(現・浜松市立二俣小学校)入学。 (大正11年) - 高等小学校卒業、(現・湯島)の自動車修理工場「アート商会」(現在の)に入社(当時の表現で「奉公」)。 半年間は、社長の子供の子守りばかりであった。 (昭和3年) - アート商会に6年勤務後、のかたちで浜松市に支店を設立して独立。 宗一郎ただ1人だけが社長の榊原郁三からを許された。 (昭和10年) - 小学校教員の磯部さちと結婚。 (昭和11年) - 第1回全国自動車競走大会()に、に自作のターボチャージャーをつけたマシン で弟の弁二郎 とともに出場するが事故により負傷、リタイアを喫する。 (昭和12年) - 自動車修理工場事業を順調に拡大、「東海精機重工業株式会社」(現・株式会社)の社長に就任。 エンジンに欠くべからざる部品としてに目をつけるが、経験からだけではどうにもならない学問的な壁に突き当たり、(現・)機械科の聴講生となり、3年間の研究に費やす。 (昭和14年) - アート商会浜松支店 を従業員の川島末男に譲渡し、東海精機重工業の経営に専念する。 (昭和17年) - 長男・(元「」代表取締役)誕生。 が東海精機重工業に出資、自らは専務に退く。 (昭和20年) - により東海精機重工業浜松工場が倒壊。 所有していた東海精機重工業の全株をに売却して退社、「人間休業」と称して1年間の休養に入る。 (昭和21年) - 10月、浜松市に 設立。 39歳の宗一郎は所長に就任。 (昭和23年) - 二男・勝久誕生。 を浜松に設立。 同社就任。 100万、従業員20人でスタート。 二輪車の研究を始める。 (昭和24年) - のちにホンダの副社長となると出会い、ともにホンダを世界的な大企業に育て上げる。 ホンダの社史についてはの項目を参照• (昭和36年) - 藤沢とともに「」というを設立。 若手研究者や学生に対して匿名で奨学金を交付 した。 (昭和48年) - を訪れた帰国直後の会見で、本田技研工業社長を退き、取締役最高顧問に就任することを発表。 研究所所長は続けた。 (昭和56年) - を受章。 (昭和58年) - 取締役も退き、終身最高顧問となる。 (平成元年)- アジア人初のの入りを果たす。 (平成3年) - 、東京都文京区のでのため死去、84歳没。 は宗一郎の遺言通り、葬儀は家族で静かに送られた。 同日、。 (平成22年) - 、出生地である静岡県浜松市天竜区にがオープン。 建物は国の(建造物)に登録されている旧役場を改装したものである。 エピソード [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2013年2月)• 終戦直後は何も事業をせず、土地や株を売却した資金で合成酒を作ったり、製塩機を作って海水からを作りと交換したりして「遊んで」いたという。 しかしこの時期に、苦労して買い出しをしていた妻の自転車に「エンジンをつけたら買い出しが楽になる」と思いつき、オートバイ研究が始まる。 1950年代前半、生来の機械好きが高じて資本金600万円の時代に総額4億円の外国製工作機械を購入。 しかし1955年には100社を超えるオートバイメーカーが撤退する不況が訪れ、ダイヤモンド誌に「高い金を出して機械を買っても使い切れていない」と過剰な設備投資を批判されるが、後に「会社がつぶれても機械そのものは日本に残って働くだろう。 国民の外貨は決してムダにはなるまい。 」と当時の心境を語っている。 会社は、シェア1位の(トーハツ)が買収に乗り出すほどの苦境に陥るのの、京橋支店が社是「世界的視野に立て」に共感して融資を行い辛うじて踏みとどまった。 会社のハンコをに預け、経営もすべて任せていた。 本田は社印も実印も見たことがなく 、技術部門に集中し、のちに「藤沢がいなかったら会社はとっくのとうに潰れていた」と述べており、藤沢も「本田がいなければここまで会社は大きくならなかった」と述べている。 互いに「」(本田の自宅のある地)、「」(藤沢の自宅のある地)とざっくばらんに呼び合っていた。 また両者は「会社は個人の持ち物ではない」という考えをもっており身内を入社させなかった。 宗一郎は社名に個人の姓を付したことも後悔もしていた [ ]。 経営難に陥ったときに藤沢の助言でやなどの世界のビッグレースに参戦することを宣言し、従業員の士気高揚を図ることで経営を立て直した。 出場宣言は藤沢によって書かれた。 藤沢の死後、1989年に本田宗一郎が日本人として初めてアメリカの自動車殿堂入りを果たしたときに、本田は授賞式を終えて帰国したその足で藤沢邸に向かい、藤沢の位牌に受賞したメダルを架け「これは俺がもらったんじゃねえ。 お前さんと二人でもらったんだ。 これは二人のものだ」と語りかけた。 従業員からは親しみをこめて「オヤジさん」と呼ばれていたが、一方でともに仕事をした従業員は共通して「オヤジさんは怖かった」とも述べている。 作業中に中途半端な仕事をしたときなどは怒声と同時に容赦なく工具で頭を殴ったり、実験室で算出されたデータを滔滔と読み上げる社員に業を煮やし「実際に走行させたデータを持ってこい」と激怒して灰皿で殴ったりしていた。 しかし、殴られたはずの者よりも、殴った宗一郎の方が泣いていたということもあったという。 また怒る際、「人はよく、かわいいからこそ怒るなんて言うが、おれはそうじゃない。 そのときはほんとに憎たらしくなる。 なぜなら、おれたちのつくる商品は人命にかかわるものなんだ。 それをないがしろにする人間は絶対に許せない」と言ったとされる。 の本社ビルを新築する際、「万が一地震が起こったときに割れたがを歩く人に降りかからないようにしなさい」と指示し全フロアにがつけられたという。 また藤沢もまったく同じ指摘をしていたという。 ちなみにビルの設計は、初代のイメージに基づかれていたという。 皇居での勲一等親授式へ出席の際、「技術者の正装とは真っ白な(作業着)だ」と言いその服装で出席しようとしたが、さすがに周囲に止められ最終的には社員が持っていた燕尾服で出席した。 本人曰く燕尾服を持っていなかったためそのような発言をしたとのことである。 無類のの友釣り好きで、年に一度は多数の客を自宅に招き、鮎を放った小川で「鮎釣りパーティー」を行っていた。 大の嫌いで「1年のうちに1週間から10日しか住まない所に金をかけるなんて実にばからしい」と言い、生涯所有はしなかった。 差別を「諸悪の根源」とし、差別を徹底して嫌っていた。 子どものころに「家族の中でお風呂に入る順番が決まっている」ことに気づいてからだという。 「人種や家柄や学歴などで人間を判断することを、私は今日まで、徹底してやらなかった」。 三重県で開かれたある会議に参加した本田は、管理職の1人がの料理店・での昼食を提案したところ、「50人も一緒に食事できる部屋はあるのか」と問い、一部管理職以外の参加者が弁当を食べることを知ると、自分も弁当にすると言った。 邱永漢・渡部昇一『アジア共円圏の時代』によると、作家・経済評論家のに、ホンダの海外の工場で一番うまくいっているところと一番具合が悪かったところを問われた本田は「いいほうを『台湾』、悪いほうを『』」と答えたという。 韓国について、「『どうしてですか?』と尋ねると、『向こうへ行って、オートバイを作るのを教えた。 それで、一通りできるようになったら、『株を全部買いますから、帰ってくれ』と言われた。 『どうしましょうか』と下の者が聞いてきたから、『そんなことを言われるところでやることはねえよ』と言って、金を返してもらった。 その翌日に朴正煕が殺されたんだ』とおっしゃった」という。 なお、本田がオートバイを作るのを教えたとされる台湾および韓国のメーカーは本書では明らかにされていない。 ちなみに朴正煕が殺された1979年当時、ホンダが韓国で提携していたのは起亜技研(起亜グループの二輪車部門)であり、実際にホンダは1975年より続いた起亜技研との合弁事業を1979年に解消して資本撤退している が、一方で技術供与は継続しており、起亜のバイクが「KIA Honda」ブランドで販売されていた。 また、1981年に起亜技研が大林グループ入りしてとなった際には大林自動車にも技術供与を行い、大林のバイクが「DAELIM Honda」ブランドで販売されていた。 ホンダが起亜に「帰ってくれ」と言われたのが事実かどうかは不明だが、少なくとも起亜技研・大林自動車とは合弁解消以後も良好な関係を持っており、ホンダが起亜と提携した1975年以降で「Honda」ブランドが韓国から撤退したことはない。 また、「韓国側は、本田とのライセンス契約を一方的に解消し、エンジンからデザインまでまったくのコピー品を『韓国ブランド』として販売を始め、宗一郎は周囲に『韓国とは絶対に関わるな』と言いつけた」と言うエピソードがネット上で流布しているが、ソースが不明であるうえに、本田の存命中に起亜および大林がホンダとの提携を解消したことはなく、事実に反する。 なお、ホンダとの提携を解消する2000年代以前の大林のバイクはエンジンからデザインまでホンダのまったくのコピー品が多いが、当然ながらライセンス契約を結んで正式に技術供与を受けているからであり、車体には「HONDA」と「Daelim」双方のエンブレムがある。 2001年には大林自動車の元社長を招聘してホンダコリアが設立され 、2004年に大林との提携を解消して「Honda」ブランドで韓国市場に直接参入するなど、1961年に韓国初のバイク「KIA Honda C100」を発売して以来、本田宗一郎の生前も没後もホンダと韓国の関わりは密接であり続けている。 また別の著書による社長退任のエピソードとして、エンジンを水冷か空冷かのどちらにするかという論争がホンダの中で巻き起こったころ、若い人は公害規制をクリアする意味で水冷だと主張したのに対し、本田は「砂漠の真ん中でエンストしたときに水なんかあるか!空冷だ」と主張したという。 実際に一時は本田の意見が通りの発売に至っているが、同時にこれはの出社拒否騒動に代表される若手エンジニアの反発を招いた(およびも参照のこと)。 しかしさまざまなテストの結果、最終的に水冷の方が優れていることが分かり、ホンダは水冷エンジン路線に転換する。 そのときに本田は「自分には技術が分からなくなったのかもしれない」と思い、社長を退いたという。 ホンダF1チーム監督であった中村良夫は、「結局、本田社長はもっとも基本的な熱力学の物理法則を理解していないので、いくらいっても論争がかみ合わないのです」「人間としては尊敬できるが技術者としては尊敬できない」と語っている。 「」も参照• このほか、技術者としてはをあまり好まなかったことが伝えられる。 の開発時、当時は50ccエンジンであれば2ストロークが一般的だったところ、あえてを開発し採用した。 社長退職後、全国のHondaディーラー店を御礼参りする。 その際、整備担当が握手を求めたが、自分の手が油だらけなことに気がつき、洗いに行こうとする。 しかし、本田は自らも技術者であったため、油まみれの手での握手に喜んで応じた。 意外に思われるが、によれば高級品が大好きで、時計などはブランド品のいいものを好んでいたという。 しかしこれは、「一流であるものを知っておく」という独自論からであり、実際に「ベンツのクオリティ並の軽自動車を作る」といったことも提言し、との乗り心地を技術者にドライブさせ比較検証するなどして実践していた。 逝去の2日前、さち夫人に「自分を背負って歩いてくれ」と言い、夫人は点滴の管をぶら下げた宗一郎を背負い病室の中を歩いた。 そして「満足だった」という言葉を遺した。 弔問時に遺族からそのエピソードを聞いた親友のは「これが本田宗一郎の本質であったか」と述べ涙したという。 その井深とは、ともに技術者出身でありシンパシーもあって、出会ってから自然と親友となった。 そして、「互いの頼みごとは断らない」などのルールを決め、互いに文化事業などの役員を推薦し合って務めたという。 また、互いに手紙をやり取りしあうことも忘れず、あるときに井深が「で手紙を送って、彼を驚かそう」と手紙を打っていたが、寸前に宗一郎が帰らぬ人となり、その手紙を送ることは叶わなかった。 に関して、「高校生から教育の名のもとにバイクを取り上げるのではなく、バイクに乗る際のルールや危険性を十分に教えていくのが学校教育ではないのか」と発言し、終始批判的なスタンスを取り続けた。 この考えはのちの本田首脳陣にも引き継がれ、徳島県のと共同実施する高校生への安全教習や、元会長の池忠彦による運動を推進する自治体への批判発言という形で具現化されている。 「自動車会社の創業者の自分が葬式を出して、大渋滞を起こしちゃ申し訳ない」という遺言を遺し、社葬は行われなかった。 叙勲等 [ ]• (1981年)• (1991年)• 米国自動車殿堂入り• 名誉工学博士• 名誉工学博士• 『私の手が語る』(1982年・ 再刊:2003年・)• 『やりたいことをやれ』(2005年・)• 『俺の考え』(1996年・)• 『得手に帆あげて』(2000年・ 新装版 わせだ書房刊を再編集)• 『スピードに生きる』(2006年・ 新装版)• 『』(2001年・) 評伝 [ ]• 梶原一明編 『一冊でわかる! 本田宗一郎』(2009年・PHPビジネス新書)• 『本田宗一郎 やってみもせんで、何がわかる』(2010年・) 脚注 [ ] []• 現代ビジネス 2011年8月17日. 2019年12月26日閲覧。 小学館 学習まんが人物館 本田宗一郎より。 日経ビジネス人文庫 夢を力に 著:本田宗一郎より。 自転車文化センター• 『昭和の日本 自動車見聞録』P. 後にホンダの系列会社「」を設立する。 同店は現在でも自動車修理工場として存続している。 現在の「」が行っている事業「YES奨励賞」の原点。 NHK あの人からのメッセージ番組内で、本田宗一郎が自ら経緯を語る• BIZ HINT 2020年4月12日. 2020年4月17日閲覧。 本田宗一郎『やりたいことをやれ』(2005年・PHP研究所 258P)• 山本治『ホンダの原点』p56-本田と藤沢(自動車産業研究所刊・成美堂出版)• ただし、本田の弟・弁二郎の「本田金属技術」や息子・博俊の「無限」など、 親族経営の関連会社は存在する。 藤沢武夫 『経営に終わりはない』(1998年・ 43ページ• 『藤沢武夫の研究』 P 236• 本田技研工業「語り継ぎたいこと」 2018年11月25日閲覧• 本田宗一郎『本田宗一郎 夢を力に 私の履歴書』(日経ビジネス人文庫・日本経済新聞出版社)p75 - 76• 本田宗一郎『やりたいことをやれ』(2005年・PHP研究所)• Online 2013年11月27日. 2019年1月1日閲覧。 新刊JP編集部 2015年1月7日. ニュース. 2019年1月1日閲覧。 梶原一明 2016年11月4日. 2019年1月1日閲覧。 邱永漢・渡部昇一『アジア共円圏の時代』p. 86より• 『本田技研、韓国での二輪車合弁事業を解消、起亜産業から資本撤退』 - 日経産業新聞 1979年9月24日• 『本田、韓国で起亜技研に続き大林工業に二輪車技術供与~鈴木自・暁星機械組と激突』 - 日経産業新聞 1981年12月12日。 『帰ってくれ』と言われたはずの1979年以降もホンダから起亜技研への技術供与が継続していたことを示す• Honda社史・50年史. 2014年2月5日閲覧。 2003年10月. 2014年2月5日閲覧。 [ ]• 本田宗一郎 『私の手が語る』 参考文献 [ ]• 『Mr. HONDA Forever』(1991年・本田技研工業、社内報『ポールポジション』の追悼特別版)• 『HONDA 50years ホンダ50年史』(1998年・)• 井出耕也 『ホンダ伝』(2002年・)• 『定本 ホンダ宗一郎伝 飽くなき挑戦 大いなる勇気』(2001年・)• 藤沢武夫 『経営に終わりはない』(1998年・)• 『ホンダ神話 教祖のなき後で』(1995年・/新版:2008年・文春文庫 全2巻)• 『本田宗一郎との100時間 人間紀行』(1984年・/新版:2010年・PHPパブリッシング)• 『F1地上の夢』(1987年・、のち朝日文庫)• 『いつか勝てる ホンダが二輪の世界チャンピオンに復帰した日』(1988年・)• 『わが友本田宗一郎』(1991年・/新版:2010年・ごま書房新社)• 梶原一明 『本田宗一郎 思うままに生きろ』(1992年・講談社、のち講談社文庫)• 『本田宗一郎の見方・考え方』(2007年・PHP研究所) 関連項目 [ ]• - 本田の業績を記念とした賞• - 本 多宗一郎という本名を持つプロレスラー 外部リンク [ ]• (アート商会の後身)• (アート商会浜松支店の後身)• (NPO法人本田宗一郎夢未来想造倶楽部が運営)•

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