水木 しげる サラリーマン。 水木しげる

【絵本】「水木しげるの妖怪えほん」が絵本になって発売中です!(Eテレ『てれび絵本』)

水木 しげる サラリーマン

水木 しげる 本名、武良茂。 1922年 大正11年 生まれ。 鳥取県西伯郡境町 現・境港市 で育つ。 幼い頃から物語をつくる力に優れ、また天才的な画力を発揮。 高等小学校在学中に個展を開き、新聞に絶賛される。 しかし学業のほうは芳しくなく、一旦は上級学校への進学を断念するが画家になる夢は諦めず、仕事の傍ら塾や独習で画力を磨く。 やがて太平洋戦争の召集により、南方の激戦地に送られマラリヤと爆撃で左腕を失うが、九死に一生を得て帰還する。 戦後は様々な職業を経て、紙芝居作者、貸本漫画家となり、「別冊少年マガジン」に発表した『テレビくん』で講談社児童漫画賞 現・講談社漫画賞少年部門 を受賞。 その後『ゲゲゲの鬼太郎』『河童の三平』『悪魔くん』とヒット作を続けて発表、日本を代表する国民的漫画家となる。 近年、夫人との暮らしぶりがNHKの連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」で描かれ、爆発的なブームを巻き起こした。 紫綬褒章、旭日小受章、文化功労者の栄を得て、世界各国の漫画賞も受賞し、漫画史に名を刻む存在となった。 水木しげる漫画大全集、第2回の2冊が配本されました。 本書、世界怪奇シリーズ全、サラリーマン死神全他は、その内の1冊です。 いずれも、1968年に創刊されたビッグコミックの初期に連載されたものです。 ビッグコミックは、小学館がインテリ青年層をターゲットにし、手塚治虫、白土三平さいとうたかお、石森章太郎、などビッグネームの長編連載を柱に打ち出し、力を入れて創刊したものです。 当初水木さんは、仕事がいっぱいで依頼があったときは少し迷われてそうですが、執筆陣の名前を聞き、無理を承知で、連載を承諾したそうです。 その代り、編集陣はアイデアの情報源として荒俣宏さんを紹介したそうです。 創刊時のビッグコミックは、今のように中綴じではなく、月刊、文藝春秋のような平綴じで、定価もかなり高かったように記憶していますが、即購入、一気に読み終えました。 世界怪奇シリーズは、妖花アラウネ、以下全8編収録されています。 妖花アラウネ、アンコールワットの女、イースター島奇談、猫又の恋・・・久しぶりに読みましたが、いずれも鮮明に覚えています。 いずれも土着の民話、神話を巧みにアレンジして、うまく話を盛り上げています。 また、対象が青年層ですから、美女との絡みも相当出てきます。 また、以前から美女のタッチが少し違うなと思っていたら、やはり、つげ義春さんがアシストしているらしいですね! サラリーマン死神シリーズは、前シリーズに引き続いてビッグコミックに連載され、サラリーマン死神 以下全5編が収録されています。 設定は死神になっていますが、これは広くサラリーマン全般に通用すると考えていいでしょう!死神にも人間の魂を一定数奪うというノルマがあるようで、三等死神はノルマを果たすため、人間をだましたり、貧乏神と結託したり、果てはやっと魂を奪取したと思ったれ、生まれてくるはずの我が子の魂だったりして・・・トホホ苦労してますな! 最後の2編は、前シリーズから少し時間がたってから掲載された縄文時代を舞台にしたマンガです。 いずれも、水木しげるさん独特の舞台で、怪奇幻想色の強いマンガです。 また、君だって金をかけて整形手術をすれば、丸山(美輪)明宏くらいもてる、末期の水とか申しました、かくべつおいしいものでございます、ノルマを果たすまで地獄へ帰ってはならぬ のような少し皮肉なフレーズが出てくるのもまた格別です。 また、カラー・イラスト、全てではないでしょうが、改変されたコマ等も資料として収録されています。 なお、本館の解説は、春風亭小朝さんですが、これは解説というよりは、エッセイというべきものでしょう。 解説はもっと本格的なものにしてほしいと思います。 その一部は、別冊の解が担っていると思いますが・・・・ 昭和42年から43年頃「ビッグコミック」に連載された作品を集めています。 原案を外注スタッフが手掛けたり、女性キャラクターを当時アシスタントのつげ義春が描いているなど、内容が充実しています。 画もストーリーも素晴らしい。 画はアシスタントもいるため、隅まで細密な背景を描きこまれています。 サンコミックスの「虹の国アガルタ」や「サラリーマン死神」、KCスペシャルやサンワイドコミックスに収録されたことのある作品群ですが、いずれも絶版していますので、比較的新しいファンの方は本書でしか読めないものも多いと思います。 少し性描写もありますが、決して下品なものではありません。 水木しげる全盛期のまんが短編を集めた一冊であることを水木ファンとして保証します。 マニアには、巻頭のカラーページの希少イラスト(加賀まり子へのオマージュ・ポスターあり)と巻末の資料ページが楽しめます。 アニメ「ゲゲゲの鬼太郎」第二期の原作になった短編も多いのが特徴です。

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世界怪奇シリーズ〔全〕/サラリーマン死神〔全〕他 (水木しげる漫画大全集)

水木 しげる サラリーマン

水木 しげる 本名、武良茂。 1922年 大正11年 生まれ。 鳥取県西伯郡境町 現・境港市 で育つ。 幼い頃から物語をつくる力に優れ、また天才的な画力を発揮。 高等小学校在学中に個展を開き、新聞に絶賛される。 しかし学業のほうは芳しくなく、一旦は上級学校への進学を断念するが画家になる夢は諦めず、仕事の傍ら塾や独習で画力を磨く。 やがて太平洋戦争の召集により、南方の激戦地に送られマラリヤと爆撃で左腕を失うが、九死に一生を得て帰還する。 戦後は様々な職業を経て、紙芝居作者、貸本漫画家となり、「別冊少年マガジン」に発表した『テレビくん』で講談社児童漫画賞 現・講談社漫画賞少年部門 を受賞。 その後『ゲゲゲの鬼太郎』『河童の三平』『悪魔くん』とヒット作を続けて発表、日本を代表する国民的漫画家となる。 近年、夫人との暮らしぶりがNHKの連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」で描かれ、爆発的なブームを巻き起こした。 紫綬褒章、旭日小受章、文化功労者の栄を得て、世界各国の漫画賞も受賞し、漫画史に名を刻む存在となった。 水木しげる漫画大全集、第2回の2冊が配本されました。 本書、世界怪奇シリーズ全、サラリーマン死神全他は、その内の1冊です。 いずれも、1968年に創刊されたビッグコミックの初期に連載されたものです。 ビッグコミックは、小学館がインテリ青年層をターゲットにし、手塚治虫、白土三平さいとうたかお、石森章太郎、などビッグネームの長編連載を柱に打ち出し、力を入れて創刊したものです。 当初水木さんは、仕事がいっぱいで依頼があったときは少し迷われてそうですが、執筆陣の名前を聞き、無理を承知で、連載を承諾したそうです。 その代り、編集陣はアイデアの情報源として荒俣宏さんを紹介したそうです。 創刊時のビッグコミックは、今のように中綴じではなく、月刊、文藝春秋のような平綴じで、定価もかなり高かったように記憶していますが、即購入、一気に読み終えました。 世界怪奇シリーズは、妖花アラウネ、以下全8編収録されています。 妖花アラウネ、アンコールワットの女、イースター島奇談、猫又の恋・・・久しぶりに読みましたが、いずれも鮮明に覚えています。 いずれも土着の民話、神話を巧みにアレンジして、うまく話を盛り上げています。 また、対象が青年層ですから、美女との絡みも相当出てきます。 また、以前から美女のタッチが少し違うなと思っていたら、やはり、つげ義春さんがアシストしているらしいですね! サラリーマン死神シリーズは、前シリーズに引き続いてビッグコミックに連載され、サラリーマン死神 以下全5編が収録されています。 設定は死神になっていますが、これは広くサラリーマン全般に通用すると考えていいでしょう!死神にも人間の魂を一定数奪うというノルマがあるようで、三等死神はノルマを果たすため、人間をだましたり、貧乏神と結託したり、果てはやっと魂を奪取したと思ったれ、生まれてくるはずの我が子の魂だったりして・・・トホホ苦労してますな! 最後の2編は、前シリーズから少し時間がたってから掲載された縄文時代を舞台にしたマンガです。 いずれも、水木しげるさん独特の舞台で、怪奇幻想色の強いマンガです。 また、君だって金をかけて整形手術をすれば、丸山(美輪)明宏くらいもてる、末期の水とか申しました、かくべつおいしいものでございます、ノルマを果たすまで地獄へ帰ってはならぬ のような少し皮肉なフレーズが出てくるのもまた格別です。 また、カラー・イラスト、全てではないでしょうが、改変されたコマ等も資料として収録されています。 なお、本館の解説は、春風亭小朝さんですが、これは解説というよりは、エッセイというべきものでしょう。 解説はもっと本格的なものにしてほしいと思います。 その一部は、別冊の解が担っていると思いますが・・・・ 昭和42年から43年頃「ビッグコミック」に連載された作品を集めています。 原案を外注スタッフが手掛けたり、女性キャラクターを当時アシスタントのつげ義春が描いているなど、内容が充実しています。 画もストーリーも素晴らしい。 画はアシスタントもいるため、隅まで細密な背景を描きこまれています。 サンコミックスの「虹の国アガルタ」や「サラリーマン死神」、KCスペシャルやサンワイドコミックスに収録されたことのある作品群ですが、いずれも絶版していますので、比較的新しいファンの方は本書でしか読めないものも多いと思います。 少し性描写もありますが、決して下品なものではありません。 水木しげる全盛期のまんが短編を集めた一冊であることを水木ファンとして保証します。 マニアには、巻頭のカラーページの希少イラスト(加賀まり子へのオマージュ・ポスターあり)と巻末の資料ページが楽しめます。 アニメ「ゲゲゲの鬼太郎」第二期の原作になった短編も多いのが特徴です。

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河童の三平

水木 しげる サラリーマン

3歳の頃の水木しげる (11年)3月8日、(現在の東粉浜 )に生まれた。 父・武良亮一、母・琴江の次男。 水木によれば、当時父親の亮一は、親戚が大阪の近くで経営していたで働いていたという。 身重の母親・琴江は夫に会うために境港からやってきて、大阪で水木を産んだ。 父は共同とともにをするを興す為に、妻子をいったん故郷の入船町(現在の)に帰した。 境港に戻った理由は「大阪はいてが悪い」からという。 水木が境港に戻った年齢についてははっきりとわかっていないが、生後まもなくから2歳ぐらいのときとされている。 その後間もなく父は事業に失敗して帰郷、結局は一家全員が境港に落ち着くことになった。 5歳の頃のある日、「」に興味を抱き、3歳の弟をに突き落とそうとするが、近所の大人に見つかり、両親にしかられた上に、当時同居していた「ねーこ」と呼ばれる祖父の()に「」をすえられた。 少年時代 比較的に恵まれた環境で育つが学校の勉強はできる方ではなく、両親が入学を1年遅らせたほどだった。 自身も認めるぶりから朝寝坊してゆっくり朝食をとり、たいてい2時間目くらいの時間から登校するという変わった生徒だった。 当時、「新聞の題字を集める」のが子供たちの間で流行ったが、他の子供が飽きても熱中していた。 また、を自在に出すことができ、朝礼のおりなどに放屁して子供たちをワッと笑わせるのが得意だった。 そんな調子から成績は振るわず体育と図画以外は「総崩れ」だったが 、一歳年上で体格が大きかった為に腕っ節は強く、明るい性格もあってとして君臨した。 尋常小学校卒業後は5年制 の中等教育学校であった への進学を志望していた。 昭和初期の農村部の子供は殆どがで社会に出たが 、水木によれば地元の境港は貧しい港町ながら教育熱心な土地柄であったらしく、多くの者が中等教育に進んでいた。 水木の母もを気にする性質であったため教育に熱心で、実際に成績優秀な兄と弟はに進学を果たしていた。 勉強そっちのけだった水木も漠然と旧制中学受験を希望したが 、進路相談で教師は水木の母に「そりゃあ、無理じゃろう」と即答したという。 僅かに将来への不安を覚えたが、中等教育の予備校でもある無試験のに進むとすぐに忘れて遊び回る子供に戻っていった。 高等小学校時代も図画の成績は良く、小学校の教頭の勧めで公民館で授業で描いた絵の展覧会が開かれ、新聞に掲載されたこともあった。 学内コンクールでも金賞を何度も取り、鳥取二科展の審査員でもあった先の教頭からは油絵の道具を譲ってもらったりと可愛がられた。 高等小学校卒業後も旧制中学校には進めず、社会に出て働き先を探す為に故郷を離れる事になった。 生命保険会社に勤めて神戸に単身赴任していた父を頼りに近畿に移り、親戚の紹介で出生地の大阪に舞い戻った。 たった一人でふるさとを離れて働きに出る水木のことを不憫に思う母は、兄や弟と違って要領の悪い次男を心配して「お前はこれからどうなるんだろう」「中学に行く人たちとの差は開くばかりだよ」「務まるかなあ」と心配そうに嘆いたという。 しかし当の水木は至って平静で、むしろ田舎から都会に出て働くのを楽しみにしていた。 青年時代 大阪では都会の立ち並ぶビルと行き交う人の多さに圧倒され、夜の街の光には「まるで祭りのようだ」と思ったという。 谷町(現・大阪市中央区)にあった石版印刷会社の田辺版画社に住み込みで勤務したが 、マイペースさから仕事に付いて行けず僅か2ヶ月でクビになった。 次は寺田町にある小村版画社に入社したがこれも配達の道順が覚えられず、やっと道を覚えると今度は下町の職人達の手仕事を見物している内に荷物を届けるのを忘れる有り様で、二度目の会社も解雇された。 その後、親戚の家に居候している時に体調を崩しての症状が出た為、療養すべく鳥取へと戻る事になった。 帰郷後、息子に労働は向いていないと思った父親は好きな道(絵の勉強)に進ませる事にした。 水木は「もう職探しはやめて絵の勉強を…」という父の言葉に躍り上がったと回想している。 18歳ごろの水木しげる 水木は勉学が苦手な自分の気質を考慮して、様々な美術学校から「試験や入学資格の無い所」を探したという。 やがて大阪ので、京都市美術工芸学校(現・)で学んだ画家の松村景春が設立した精華美術学院という、当時としても珍しい無試験の美術専門学校を見つけて入学した。 しかし学院は美術学校というには小さな建物で、職員も校長が教員と事務員を兼任するという個人塾のような所で、授業内容も実践的な図案講習会に近かった。 立派なになるんだと思い詰めて一心不乱に独習を重ねてきた自身の方が、もったいぶって教える先生より技量が上と感じたという。 失望から程なく学校には行かなくなり、近所の森や山で時間を潰す日々を送った。 ちなみにこの学院には画家のも学んでいた記録が残っている。 水木が16歳の頃に一時家族3人で暮らしていた。 ここから軽便鉄道と国鉄を乗り継いで大阪の美術学校へ通った。 16歳の頃には、父が篠山支店長に転勤になったため、一人で大阪天王寺の桃谷のアパートに住むのも不経済だという理由から、に家を一軒借り、母も境港から出てきて、3人で住んでいた。 兄と弟は学校の寮にいた。 しかし、篠山から大阪の美術学校まで通うのが一苦労であったらしく、「という、日本にこんな鉄道がよくあったものだと思われるぐらい、小さな汽車に乗って二、三十分も行くと、という乗り換え駅に着く。 それから、また大阪まで乗るのだからたいへんなのだ」と語っている。 なお、水木は18歳の頃、この篠山の山中ので、で不心得者や悪戯をする者を見つけると突然上から落ちてきて脅かす妖怪『』らしきものに出遭ったことがあるという。 京都市美術工芸学校での反省から学校を選び直す事を思い立ち、美術系のである(現・)で学んでになりたいという大きな夢が膨らんだ。 高等小学校卒の水木にはの受験資格はなかったので、まずは旧制中学校を再び目指し 、精華美術学院を退校して大阪府立園芸学校(現・)を受験した。 幸運にも同年の筆記試験は国史()の一科目だけであり、参考書をほとんど丸暗記して試験に臨んだ。 加えて定員50名に対し受験者51名(つまり一人だけが落ちる)という低倍率 で、絶対に合格すると自信満々で結果すら見に行かなかったが、父が確認すると不合格だった。 水木は不合格の原因について、面接で「卒業したらどうするんだ」と聞かれ、「に入ります」というのが模範回答だが、旧制中学校卒の資格が目当てであって別に園芸や農業に興味はないと正直に答えたためではないかと推測している。 流石の水木も惨めな思いをしたが、父は怒らず「本当に満州行きになったらどうするんだ」と優しく慰めてくれたという。 (15年)で働きながら別の学校(日本鉱業学校採掘科)を受験、今度は合格する。 しかし例によって専門科目に全く興味が抱けず、成績不振且つ欠席が多く半年で退学処分となった。 間もなく新聞配達も辞め、大阪のの中にあったに通っていた。 水木は両親と今後を話し合い、両親から付属の旧制大阪夜間中学校(現・)への進学を勧められ、同校に入学した。 昼間には『支那通信』というガリ版新聞を配達する仕事をし、休日にはのや昆虫館、によく足を運んでいた。 そうした中、太平洋戦争が開戦する。 軍隊時代 鳥取連隊()時代 (父・母・弟と) 20歳になった水木はを受け 、結果は体は頑健ながらにより乙種合格で 、補充兵役に編入され現役(入隊)はしなかった。 だが戦争が激化する中で(甲種合格の現役兵主体では兵員不足のため)次第に召集対象者の枠は広がっていき、やがて自分も召集され入営する可能性が高まっていった。 「出征すれば間違いなく死ぬ」と考えていた水木は哲学書を乱読し、仏教書やなど宗教文献を読み漁った。 その中で一番気に入ったのが、の詩人『との対話』で、これは戦地にも持っていった。 21歳の時、夜間中学3年生の補充兵役であった水木にが届き 、の鳥取の留守隊に入営した。 なお、在学していた夜間中学は自動的に退校処分となった(後述)。 軍隊生活でもマイペース振りはそのままで、その大胆な態度から風呂でと間違われて古年兵に背中を流してもらった。 初年兵教育を終えるとになったが上手く吹けず、自ら配置転換を申し出た。 最初は取り合ってもらえなかったが、三度目にから「北がいいか、南がいいか」と尋ねられた。 国内配置についての事だと考え、寒いのが嫌いなので「南であります」と答えた。 てっきりなど国内南部の連隊への配属になると思っていたが、南方の行きが決定したと告げられて青ざめた。 楽天家の水木も南方戦線の惨状は知っており 、異動命令の直後に二泊三日の外泊が許されて両親が戻っている境港に里帰りしたが、お互い何も喋れなかったという。 歩兵第229連隊(。 隷下)所属となった水木をからラバウルまで輸送したのは、で活躍した老朽船の「」だった。 敵潜水艦の魚雷攻撃をかわしつつ、水木の所属した部隊は何とかラバウルに着いたが、後にラバウルに派遣された部隊は全て途中で沈没させられているため、水木の部隊がラバウルに到着できた最後の部隊であった。 ラバウルに着いた時、上陸できた奇跡から気が緩んで「ここは何処でありますか」と尋ねてしまい、上官から猛烈な往復ビンタを食らった。 軍内での鉄拳制裁は日常茶飯事で 、特に上官から目を付けられていた水木には「ビンタの王様」というあだ名がついた。 配属部隊の上官はなぜか出身者が多く、強い訛り言葉を水木が聞き取れないとそれもまた鉄拳制裁の理由になった。 基本的に軍隊生活と馴染めなかった水木だったが、所属していた第2中隊のである児玉清三(30歳代後半の材木屋出身の将校)からは、その腕を買われ似顔絵を描く事をよく頼まれていた。 他に下士官の宮一郎、砂原勝己 などが、水木に親切に接してくれた。 での戦争体験がその後の水木作品に影響を与えた。 ニューブリテン島ズンゲンの戦いにおいて、優れた装備と圧倒的な物量のの前に、所属する支隊の成瀬懿民少佐はの命令を出すが、児玉中隊長の機転で遊撃戦()に転じ、そのおかげで生命を拾うこととなる。 しかし、支隊本部の総員玉砕報告に反して生存者が出たことから、児玉は責任を取って自決した。 また島の住民にも襲われそうになった。 バイエンに配属され、決死隊として夜間の見張りをしていたとき、敵の飛行機からされた。 さらに逃げていた所を原住民ゲリラに発見され、あわてて海に飛び込んで逃げた。 水木はとふんどし一丁でジャングルを数日間逃げ惑い、日本兵への捜索隊をやりすごしつつ、奇跡的に生還した。 九死に一生を得て部隊に戻ると仲間達は喜んでくれたが、兵器を捨てて逃げた事を上官にとがめられた。 「なぜ死なずに逃げたのか」と不機嫌な態度で詰問され、呆然としていると「死に場所は見つけてやるぞ」と言い捨てられた。 これ以降、戦場ですら朗らかだった水木も流石に塞ぎこんで的な考え方をするようになった。 陰惨な日々は続き、帰還してまもなく行軍中に風邪を引いた際にを発症、高熱で錯乱状態に陥ってジャングルを彷徨い歩き、危うく行方不明になりそうにもなった。 追い討ちをかけるように療養中に敵機の爆撃で左腕に重傷を負い、によって麻酔のない状態で左腕切断手術を受けるなど、再び半死半生の状態に追い込まれた。 1945年の初め頃、他の傷病兵と後方に送られる。 傷病兵の間では「役立たずになった兵士はまとめてどこかに捨てられる」との噂が立っており、水木も少し不安だったが辿り着いたのはナマレに設置された野戦病院で、治療の傍ら畑仕事などに駆り出された。 最前線に比べれば安全な土地で死の恐怖が和らぐと、島の原住民である トライ族 ()と交流する余裕ができた。 他の兵隊の様に威張らない水木を気に入ったトライ族から歓待を受け、水木の側も配給のタバコをお礼に渡すなどしている内に意気投合し、やがて集落の仲間として受け入れられた。 軍規違反を承知で理由を付けてトライ族の集落に通い、トライ族の側も水木が再びマラリアで倒れると食料を持って見舞いに来てくれた。 事ある毎に自分を罵倒していた上官の大尉からは「あいつは頭がおかしいぞ」と陰口を叩かれたが、先述の砂原勝己が庇ってくれたという。 8月25日、部隊長から「受諾」についての訓示を受ける。 水木も他の兵士達も意味する所が理解できず「戦争に勝ったのか?」との囁きが漏れたが、程なく「戦争に負けた」という話だと判った。 軍内では落胆の声が広がったが水木は「生き延びた!」と思い、戦場で死ななかった事に感無量だった。 カゼル岬にあった連合軍の捕虜収容所に収監されて本国送還の順番を待つ間、トライ族から農地を分けるから一緒に暮らさないかと誘われ 、現地除隊して永住することを真剣に考えたこともあった。 しかし、砂原から「家族に会ってから決めても遅くないぞ」と助言され、帰国を決意したという。 ただし、これについて砂原は「言った記憶がない」と述懐している。 1946年3月、24歳の時に「」で港に入港し、日本へした。 美術学校時代 水木が治療を受けた 3年振りに帰国した水木は国立相模原病院(旧・神奈川臨時第3陸軍病院、現在の)に入院して、応急処置の段階だった片腕の本格的な治療を待っていた。 医者や物資の不足で一向に順番が回ってこないので一旦故郷の境港に戻り、養生する日々を送った。 両親は水木が片腕を失った事を知らなかった為、事実を知った後に母が片腕を使わずに家事をしたり、父が片腕無しでも務まる仕事を探して「なんかどうじゃろう」と知恵を絞ったりと、次男の不幸を悲しんでいたという。 しかし水木自身は生き抜いた喜びと「絵を続けられる」という希望を胸に抱き、出征前に目に焼き付けておいた故郷の風景を眺め、清々しい気持ちで過ごしたという。 翌年、治療の順番が回ってきたので相模原病院に戻った。 病院直営の染物工場で絵付けの仕事で入院中の生活費を稼いでいたが、雀の涙にしかならなかった。 やがて他の患者と闇米の買い出しで生活費を稼ぐようになり、本格的に闇屋家業で一財産を得ようと目論んでに食料の買い付けに向かった事もあったが、見事に失敗して「どんな道でもプロになるのは険しい」と反省した。 他に病院仲間から誘われて「新生会」という「傷病兵の明るい未来」をスローガンに掲げ、様々な事業を繰り広げていた傷痍軍人団体に加盟し、復員兵による廃墟ビルへの居座りや募金活動などに参加した。 この内、居座りについては政府から軽くあしらわれて失敗したが募金活動は上々の成果を挙げ、元気よく軍歌を歌って募金を集めた。 だが上層部の内紛で加盟員の離脱が相次ぐと、水木もにおいて政府の許可制であるの資格を申請して転職した。 予め契約を取った家庭に魚を届ける形式で、ようやく復員後の生活が安定するようになった。 なお、魚屋をはじめる際により「突撃あるのみ」と叱咤激励されている。 経済的に余裕が出ると絵に対する思いが湧き上がり、武蔵野美術学校(現在の)が学生を募集中と知る。 すぐに入学を思い立つが、旧制専門学校であった同校には旧制中学もしくは新制高校の卒業資格が必要だった。 水木は件の夜間学校に掛け合ったが、「出征により退校」となっていた事から卒業資格は与えられないと回答された。 それでも在学証明書を貰って美術学校に直談判し、特別に入校を許可される。 1948年、26歳の時に入学した美術学校は敗戦直後という事もあって学生の服装は古びていて、技術や年齢層も不揃いだったが懸命に学んでいたという。 仕事の方は新たにを始めるべく魚売りの権利を売り、その金で輪タクを四台購入して一日五百円で貸し出し、また弟と協力して米軍物資の横流しなど闇市での商売も続けた。 学業と仕事に明け暮れたが、商売はやはり素人商売ゆえに大手に押されてどちらもジリ貧になり、店じまいとなった。 起死回生を狙って「新生会」の副会長と二人で全国募金行脚を挙行するも、思っていた程に集まらず、神戸に辿り着いた時には這々の体であった。 学業の方も絵で食べていく事の経済的な厳しさを痛感する中で徐々に見切りを付け始め、数年後に中退した。 これが水木にとって最後の学業への試みとなり、「色々学校に行ったが、結局は高等小学校卒という事になった」と回想している。 紙芝居時代 復員後の道が定まらない状況を過ごしていたが、先の募金旅行で辿り着いたで滞在した安宿の主人から「この建物をアパートとして買ってもらえんやろか」と購入を持ちかけられた。 既に抵当が付いていたが、その代わりに格安の値段であったので購入を決意し、輪タク業など今までの事業で貯めた資金をかき集め、足りない分は父に借金して代金を調達した。 このアパートが水木通にあった事から「 水木荘」と名付け、大家業を始めた。 勝手が分からずとにかく不動産屋に頼んで募集の広告を掲載した所、水木と同じ変わり者ばかりが入居し、家賃収入は捗捗しくなかった。 大家業が中々軌道に乗らず副業を探していた所、29歳の時に紙芝居作家の弟子をしているという青年がアパートに入居した。 一度は諦めた絵に対する熱意もあって、その青年から紹介してもらった紙芝居のに手製の紙芝居を持ち込んで回った。 水木曰く「内容がゲイジュツ的」だった為か評価は今ひとつだったが、林画劇社という貸元で演じ手の纏め役をしていたのが水木の作品を気に入り、同社の紙芝居作家として採用された。 夢にまで見た絵に係る仕事に付いたが紙芝居業は非常に薄給で、ましてや実績のない無名の新人作家にはまともな代金は支払われなかった。 加えて貸元も絶えずの危機にある零細企業であり、その僅かな代金の支払いすら滞りがちであった。 暫くして鈴木が林画劇社から独立して自身の貸元「阪神画劇社」を設立すると水木も引き抜かれて専属作家の扱いになった。 当初は本名で活動していたが、鈴木が水木の本名(武良茂)を覚えてくれずいつまで経っても「水木さん」と間違って呼ぶため、そのまま「 水木しげる」のペンネームを使い始めた。 専属作家になっても相変わらず薄給のままで、人気の紙芝居作家であったの助手なども務めながら本業の収入に頼る状態が続いた。 1953年、ついにアパート経営にも行き詰まると水木荘を売却して購入時に引き継いだ借金を精算し、大家業から手を引いてに引っ越した。 また、でにされていた兄・宗平が出所したので一家で同居する。 それからは紙芝居の専業作家として脇目も振らずに作品作りに没頭し、少しずつを掴んで「空手」「」など後年の活躍に繋がる作品を制作した。 しかし水木が紙芝居作りのコツを覚えるのと平行してやなど他の娯楽に押されて紙芝居業界は急速に衰退していった。 紙芝居に見切りを付けて漫画家への更なる転身を決め、1957年に西宮から上京しての版元に持ち込みを行った。 自身と同じく紙芝居から離れていたの推薦もあり、という小さな出版社から別の作家が書き残した「赤電話」という漫画を完成させる仕事を受注した。 この仕事を無事に終えた後、1958年に正式なデビュー作として『』を出版し、35歳で紙芝居作家から貸本漫画家となった。 貸本時代 貸本時代初期の水木は主にやギャグ漫画などを中心に制作しており、『飛び出せピョン助』『戦場の誓い』などをから刊行した。 他にも、、、、などの多彩なジャンルをさまざまなタッチで描き分けている。 また作家が他の出版社から作品を出すのを嫌がる傾向があったので、 水木しげる以外にも むらもてつ、 東真一郎など複数のペンネームを使い分けていた。 貸本漫画は一冊120ページ程度の作品につき2万5000円から3万円程度の報酬が出版社から支払われたが、これは当時の国家公務員の初任給が1万足らずで、紙芝居が1作200円から1000円であった事を考えればかなりの高給だった。 ただしそれは毎月作品を量産でき、なおかつ作品が毎回採用された場合の話であった。 遅筆の水木が一ヶ月で作品を仕上げられる事はまずなく、完成しても売れる見込みのある作品でなければ出版社は買い取らなかった。 そればかりか他の出版社にも不評の噂が回って締め出しを食らうという過酷な実力社会だった。 しかも紙芝居の同様に貸本出版社も零細企業が多く、どうにか納入が決まっても例によって代金の支払いは滞った。 懸命に働いても生活は楽にならず、家賃の滞納や質屋通いが続いた。 作品が評価されず不遇の生活が続く内に暗く陰惨な作風が強まり、それが出版社から「作風が暗い」と敬遠されて余計に生活が苦しくなるという悪循環に陥っていった。 一時は「水木しげるの名では売れない」と 堀田弘、 竹取おさむなど勝手に作者名を変更される屈辱を味わった。 この貧乏生活のさなか、すでに40歳近い水木を心配する両親の強い薦めで、大塚村(現在の)出身のとをし、同年に結婚した。 間に立ったのは布枝の母の弟で、この叔父の妻の実家が武良家のだった。 結婚する最初で最後の機会と考えた水木は「普通の会社員の二倍稼いでいる」と仲人口で見栄を張って洗練された都会人を装ったが、気が緩んだ拍子に方言を連発してしまったという。 見合いから結婚式までわずか5日というスピード婚で 、式場はの灘町後藤のお屋敷が用いられた。 の余裕すらなく大急ぎで東京に戻り、作品制作を再開した。 この頃の水木は戦記漫画が一番の売れ筋であり 、の貸本用雑誌である『少年戦記』でなどを連載し、また雑誌の編集役を請け負ってやらとも交流している。 しかし肝心の原稿料は出し渋られ、紙芝居業界につづいて貸本漫画業界も衰退すると益々生活が苦しくなっていった。 あまりの貧しさに、訪れたは「こんなに収入が少ないワケがないでしょう? 」と疑ったが、水木は質札の束を突きつけ「われわれの生活が、キサマらにわかるか! 」と怒って追い返した。 結婚の翌年に長女が生まれた時は真剣に漫画家を辞める事も考えたという。 そうした中でかつて紙芝居作家時代に描いた「鬼太郎」を題材にする事を思い付いた。 、兎月書房から『』シリーズの執筆を開始し、第一作となる「幽霊一家」が貸本雑誌『妖奇伝』に掲載された。 後年の鬼太郎とは全く違う、紙芝居時代に近い陰鬱な怪奇物に仕上げ、当初は全く売れず『妖奇伝』も第2号で打ち切りとなった。 だが打ち切り後に一部の読者から熱心な連載再開を要望する手紙が届き、倒産間際だった兎月書房は最後の希望を託して『墓場鬼太郎』シリーズの刊行を継続した。 これが人気作となり、徐々に水木しげるの名が知られていく契機となった。 水木は「窮地に陥るといつも現れて救ってくれるのが鬼太郎だった」と述べている。 人気作家へ 名が売れると多少は強気の姿勢に出られるようになり、『墓場鬼太郎』の原稿料を支払わない兎月書房からに移籍して『鬼太郎夜話』を刊行した。 『鬼太郎夜話』も人気を得たが、三洋社の社長が結核で入院して経営が混乱した事で打ち切りになってしまい、既に納入していた5巻目の「カメ男の巻」は原稿自体が行方不明という幻の作品と化している。 『鬼太郎夜話』打ち切り後、兎月書房と和解して鬼太郎と共に紙芝居時代の作品である『』を漫画化したが、1962年に兎月書房が倒産した。 兎月書房倒産後はや『』を出版したの貸本漫画に活躍の場を移したが、『悪魔くん』は思ったより人気が出ず、全5巻の予定が3巻目で打ち切りとなった。 貸本版の『悪魔くん』は経済的な貧しさから生じた過激な社会風刺に満ちており、「間違っている世の中を倒して、革命を起こす」という過激な思想は当時の水木の「懸命に働いても貧乏が続く」自身の生活の悲しみと憤りから発している。 こうして、水木が得意とする妖怪漫画の原型が紙芝居から貸本漫画時代にかけて形作られた。 1964年、病気療養から復帰したから新しく漫画雑誌を作る予定を聞かされ、水木にも参加して欲しいとの依頼を受けた。 同年9月に現代漫画の源流の一つとなる『』の第1号が出版され、水木は創刊号で「不老不死の術」を掲載した。 以降、個性派揃いの作家陣が揃うガロにあって、やらと並んで雑誌の看板作家として名を上げた。 1965年には講談社からの影響で「劇画路線」を採用した『』での連載を依頼されるも、「SF物」との縛りがあった事から悩んだ末に当初は辞退した。 しかし、『週刊少年マガジン』の編集長がに交代した半年後、作風を限定しないとの譲歩を得て執筆を承諾した。 貸本時代の絵柄から、「子ども向けのかわいい絵柄」に変えるのに苦労するが 、『』に掲載した『』が第4回を受賞し、45歳にして人気作家の仲間入りを果たした。 なお、それまでの貧乏生活で、に入れていた物品は質札3cm分にもなっていたが、雑誌連載の原稿料ですべて返済し、質流れになることなく取り戻すことができた。 ただ、最初に質屋に入れた背広は、10年経って変形していたので外につるして置いたら、ドロボウに盗まれてしまったという。 には急増した仕事に対処するため水木プロダクションを設立。 つげ義春や、らが参加し、アシスタントを多数使えるようになったため、水木漫画おなじみの「が非常に多い濃厚な背景」を描けるようになった。 銅版画を思わせる「絵画的な背景」の前に簡素な線で描かれた「漫画的なキャラクター」が配されるという組み合わせは、水木が発明した非常にユニークなものである。 水木の作品の影響で、漫画、TV、映画の世界は一大ブームとなる。 またでの専門用語だった「妖怪」が、一般に伝わる経緯ともなった。 また、『週刊少年マガジン』で「大図解」を担当していたも、水木の妖怪画に惚れ込み、何度も妖怪についての特集を組んでいる。 には連載が11誌に達してテレビやイベントの仕事も引き受けるなど時間に追われる日々を過ごした。 気侭な人生をモットーとする水木はどんな状況でも睡眠時間だけは十分に取っていたが、この時期だけは徹夜に次ぐ徹夜で目眩や耳鳴りの症状が出る程だった。 またプロダクション設立後は運営経費の捻出にも悩まされ、「漫画では大金持ちにはなれない」と痛感したという。 そんな時に軍隊時代の恩人で、戦後はの職員になっていた宮一郎元軍曹と26年振りに再会し、二人で戦地を尋ねる旅行に出向く事になった。 再訪したではトライ族の集落も訪れ、久しぶりに牧歌的な生活を見るにつれて自身のマイペースさを失っていた事に気付き、帰国後すぐに仕事をセーブする事を決めた。 またこの時期に本人が最も思い出深いと語る戦記漫画『』を執筆している。 仕事を抑えた事に加えて初期のブームが一段落した1980年代初期には低迷期を迎え、水木家では夫人が「自分が働きに出ようか」と提案するほど経済的にも遣り繰りが厳しくなったという。 一時は水木も「妖怪なんていないんだ」と言い出すなど霊的世界への興味や創作意欲を失ったが、がで「」を目撃した話をしたところ、水木は喜んで立ち直ったという。 それから鬼太郎を筆頭に全盛期に描いた妖怪漫画の度重なる映像化や再放送などで人気が復活し、やがて世代を超えた知名度を得ていった。 また連載を減らした時からアシスタントには趣味でもあった妖怪絵巻の制作を手伝ってもらい、膨大な数の妖怪画を蓄積していたが、こうした妖怪に関する考察や資料も作品の再評価に繋がった。 水木しげるの墓(当初は生前墓として建てられた) (2015年12月) ブーム再燃後は『』『』など自らが描きたいと思う作品を選びながら執筆するようになり、個性派作家としての人気を確固たるものにした。 にを、にをそれぞれ長年の漫画家としての活躍を讃えられて受章している。 水木の特異なキャラクターと昭和と戦後漫画の歴史を生きてきたその数奇な人生が知られるようになったことで、水木自身について興味を抱かれる機会も増えた。 1993年、幼少期を過ごした出身地の町おこしに協力し、の建設が開始され、2003年にの開館によって完成した。 同地は鳥取県における観光名所として発展している。 2010年、に選出される。 90歳を超えてなお新作漫画やエッセイを発表し続けた。 晩年の主な作品としては、長年の課題としていたを描いた『』、の生涯を漫画化した『水木しげるの泉鏡花伝』、最後の連載漫画となった『』、青年期に戦地まで持ち込んだ『ゲーテとの対話』のうち現代社会に活かせる内容を著した『ゲゲゲのゲーテ』などがある。 また、映像作品では『』の実写映画や貸本版『』のテレビアニメなどが実現した。 2010年には、妻・の著書『』がNHKとしてテレビドラマ化、およびされるなど改めて水木の人生に注目が集まった。 海外での評価も高まり、フランス・、米などを受賞している。 2011年、について考察した絵を描き、に掲載された。 2013年、自身初の全集となる『』が講談社から刊行開始。 同年には近況を綴った『』の雑誌連載を『』誌で開始、90歳を超えて新連載を始めるのは異例の記録となる。 同年12月発売の『怪 vol. 0046』に発表された第3回が遺作となった。 第4回からは水木プロダクション作品として連載が続けられ、2016年7月発売の『怪 vol. 0048』に掲載された第5回で完結した。 死去 、東京都調布市の自宅で転倒して頭部を強く打ち、都内の病院に入院した。 頭部打撲によるを治療する為に緊急手術を受け、入院治療中で、頭部打撲は回復したものの 、同年未明に容体が急変し、午前7時18分にのため入院先の東京都ので死去した。 93歳没。 通夜、葬儀・告別式は近親者のみで営まれた。 翌年のには・にて「お別れの会」が開かれ、親交のあった著名人や一般弔問者など約7800人が参列した。 祭壇は水木の短編漫画『丸い輪の世界』をイメージして作られ、周囲には鬼太郎や悪魔くんなどのイラストが並んだ。 遺影の下には水木の故郷から見える山や海、左右には太平洋戦争時に出征したをイメージした花が配され 、遺影の前には 当時 からのが飾られた。 戒名は「大満院釋導茂(だいまんいんしゃくどうも)」。 弔辞は、、らが読み上げた。 没後 2016年2月、アニメーション産業・文化の発展に寄与したことが称えられ、「2016」でアニメ功労部門を受賞。 同月には水木の仕事場から未公開の日記が発見され 、2017年1月のNHK『』で特集が組まれた。 2016年、東京都調布市は命日の11月30日を「ゲゲゲ忌」と名付け、水木の功績を称えるイベントなどを毎年開催。 鳥取県境港では記念品の配布などが行われている。 2017年3月、水木しげるの生涯を回顧する展覧会「追悼水木しげる ゲゲゲの人生展」が東京・松屋銀座で行われ、その後は全国を巡回する。 永らく生れと公表していた。 水木が境港に戻った年齢は、「2歳ぐらいのとき」 、または「生後1ヵ月」 となっている。 第二次世界大戦中の1943年に4年制へ短縮され、戦後のに新制中学校・新制高校に統合されて廃止となった。 後の新制中学校の3年間と新制高校の2年間を合わせた課程に相当。 のち砂原国立加古川病院名誉院長。 なお、名前の「勝巳」表記は誤り。 『ラバウル戦記』では、機銃掃射ではなく原住民ゲリラの襲撃としている。 他にいた決死隊の仲間は、機銃掃射に当たり、死亡した。 実写版『悪魔くん』のプロデューサーによると、水木は「自分」という一人称を使うことが印象深いとコメントしていた。 妻によると、「漫画家・水木しげる」を演じるために使っているようで、家族に見せる顔と、ファン・編集者らに見せる顔は違うという。 他方、手塚の長男のは水木漫画の愛読者で、後年の監督作品『妖怪天国』につながっている。 水木の存命中に、生前墓として建てられた。 平成22年7月吉日・鳥取県境港市長。 エンドロールでの表記は『傷痍軍人 水木しげる 』。 1980年代後半までは、一般書店でも購入できた。 現在は古本市場で高値を生んでいる。 朝日新聞デジタル 朝日新聞社. 2015年11月30日. の2015年11月30日時点におけるアーカイブ。 2015年11月30日閲覧。 神戸新聞. 2015年11月30日. の2015年11月30日時点におけるアーカイブ。 , pp. 43-44. , p. , p. 480. , p. , p. 水木しげる『ほんまにオレはアホやろか』新潮社、2002年8月、23頁。 水木しげる『水木しげるの憑物百怪』学習研究社、1995年、122-123頁。 , p. , p. , pp. 68-70. , p. , p. , p. , p. , p. , p. 戦争証言アーカイブス. 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