おれは男だ。 【今週はこれを読め! ミステリー編】人間の残酷さを浮かび上がらせる作品集『おれの眼を撃った男は死んだ』

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シャネル・ベンツ『おれの眼を撃った男は死んだ』(東京創元社)には、優れた短篇に与えられるO・ヘンリー賞を2014年に獲得した「よくある西部の物語」を含む10の小説が収められている。 知っている限りベンツが邦訳されるのはこれが初めてだ。 テネシー州メンフィス在住で、ローズ・カレッジで教鞭を執っているという以外の経歴はわからない。 本を一目見た瞬間、『おれの眼を撃った男は死んだ』という題名に心を鷲掴みにされた。 いや、されるだろう普通。 2017年に本国で出た原書もThe Man Who Shot Out My eye Is Deadなのだが、こういう題名の短篇は本書には入っていない。 これは「死を悼む人々」という話の中に出てくるフレーズなのだ。 作者かエージェントか編集者かが、これを題名にしたら読者はびびりまくるぜ、と思いついたのだろう。 やるな。 純粋なミステリーの枠に収まるような小説ではないが、収録されているのはすべて死と暴力を扱った作品である。 たとえば上にも書いた「よくある西部の物語」は、兄と娘の物語である。 親が亡くなったために引き取られたおじの一家で、ラヴィーニアは虐待を受けていた。 そこに会った記憶さえない兄のジャクソンがやってくる。 ラヴィーニアは彼と一緒に行くことを選ぶのである。 本の題名を見ただけで心ある読者ならピンと来るはずだが、この一篇の冒頭数行を読めばそれは確信に変わる。 引用しよう。 ----兄はあたしを迎えにきた最初の男だった。 酒をしこたま飲んで、ニューメキシコの売春宿の外で、素っ裸の姿をあたしの目のまえにさらした最初の男でもあった。 約束をしたら、それを守るだろうとあてにできる最初の男でもあった。 このリフレインが生みだす効果をベンツはよく承知しており、他の短篇でも使用している。 何が起きているのかがわかれば文章はそれでいいと考えている作者ではないようだ。 時系列があえて混乱させられているために事実関係を把握しにくい「外交官の娘」のような作品もある。 同作ではっきりわかるのは暴力の痕跡、そしてよるべなき者を引き合わせる力の強さ、孤独によってできた真空の虚ろさだ。 どの短篇にも印象的なモチーフがいくつか示される。 それのざらざらとした手触りを確かめているうちにいつの間にか文章は進んでおり、突如待ったなしの場面に立たされている自分を読者は発見するのである。 たとえば「思いがけない出来事」の74ページ、「オリンダ・トマスの人生における非凡な出来事の奇妙な記録」における147ページ。 気が付いたら空中に突き出た板の上にいた。 落ちたらきっと鮫の餌食だ。 「よくある西部の物語」の話に戻る。 引用した部分はラヴィーニアの回想であって、物語の最後にはそこに戻ることになる。 円環や枠物語の構造なども本書では多用されている技巧だ。 そのためにパロディの技巧が用いられているのが二篇目の「アデラ」で、副題に「最初は"黒い航海"として知られ、後に"心臓という赤い小箱"として再版された物語 一八二九年、作者不詳」とあるように、十九世紀小説の模倣が行われている。 「アデラ」がこうした形式で書かれているのは、人間のある残酷な一面を間接的に浮かび上がらせるためである。 どんなぼんくらな読者でも見逃さないとは思うが、この小説の主語が「わたしたち」という複数形になっていること、そして世間知らずの少女の視点で書かれていることには意味がある。 話が後先になったが「よくある西部の物語」は主人公が馬で移動していることからもわかるように十九世紀の出来事であり、法律が未整備で倫理観が現在とは異なっているからこその野蛮がそこでは描かれる。 「アデラ」に書かれているのはまた違った種類の野蛮さであり、その残酷さはより現代に近いものがある。 「わたしたち」って誰だよ、って話だ。 本書には「アデラ」のように、過去に刊行された記録が時代を超えて再版されるという体のものが多い。 「オリンダ・トマスの人生における非凡な出来事の奇妙な記録」もそうで、副題は「アメリカの奴隷----奴隷自身による著書」である。 歴史的過去を扱った小説にはたいてい、鏡像としての現在を浮かび上がらせる狙いがある。 「オリンダ・トマス」などはまさにそうした作品で、ここに書かれたことは形を変えて今も繰り返されている、と読みながら確信した。 副題からもわかる通り奴隷制度廃止前の時代を書いてはいるが、自分が偽善者であることに気づかない男の小説だからである。 主人公のオリンダは黒人だが、フランス語の読み書きができたことからフレデリック・クローフォードという男に買い取られた。 オリンダに詩才を発揮させることで人種差別撤廃の啓蒙をするつもりなのだ。 二人が奴隷市場のあるニューオーリンズにやってくることから話は始まる。 当然ながら恐怖を感じるオリンダの「いくじのなさにたいそうがっかりし」たフレデリックは「その経験からすばらしい詩を書きたまえ」と励ますのである。 ああ、もう嫌な予感しかしないこいつの態度。 女性に対する男性の暴力、人権に対する尊厳が微塵もない世界で突如として訪れる死が十篇にはくり返し出てくる。 暴力小説であり、冒頭の「よくある西部の物語」のように、銀行強盗や暴動などが描かれる作品がほとんどなので、犯罪小説集と言ってもいいだろう。 「死を悼む人々」はその中でも屈指の理不尽さが描かれる作品であり、売春宿を営む父親と、彼の指示に流されるままの人生を送ってきた娘のいびつな関係が話の柱になっている。 背景にあるのは次々に人命を奪っていく伝染病の流行で、そもそも冒頭からして、夫の遺体に主人公が添い寝する場面から始まるのである。 死の予兆が全篇を覆い尽くすが、理不尽さに塗れた現実よりはそちらのほうがよほどましと思わされる瞬間さえ出現する。 動の「オリンダ・トマス」と静かな「死を悼む人々」は対をなす作品である。 最後の「われらはみなおなじ囲いのなかの羊、あるいは、何世紀ものうち最も腐敗した世界」はクロムウェルの暴力的な清教徒革命が世を席巻した十六世紀の物語だが、作者は歴史的過去にことよせながら現代社会への絶望の意を表明しているように見える。 この小説は祈りの言葉によって終わる。 ----私の心を清めてください。 私の魂を正してください。 私をお見捨てになることなく、私のなかに聖霊をとどめてください。 何世紀ものうち最も腐敗した世界のなかで、神よ、どうかわが祈りを聞き届けたまえ。 (杉江松恋).

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「とてつもないデビュー作だ。 冒頭の一編はあなたの息の根を止める」〈サンフランシスコ・クロニクル〉の帯文に惹(ひ)きつけられた。 10の作品を収録した短編集だが、まずは冒頭の「よくある西部の物語」だ。 筋だけを追えば、少女が兄と銀行強盗を犯す西部小説で、悲惨な結末が待つ「よくある話」なのに、なんと生き生きと荒々しいのだろう。 それでいて時に詩的な表現が無造作にくりだされて、はっとする。 鋭くきらめくからだ。 小川国夫が書いた西部小説の趣がある。 光と闇、何かしら神に近い存在に見つめられながら死へと赴く。 悪というには軽く、犯罪というには幼いのに、そうせざるをえない業が感じられる。 本作はO・ヘンリー賞を受賞したのだが、確かに切れ味鋭く深みをもつ短編だ。 だが、それ以上に心を震わせるのは「思いがけない出来事」だ。 遠く離れた父親に会いに行く娘の話で、少しずつ娘の行動の動機、父や義兄との関係が見えてくるのだが、どこにも行き場のない閉塞(へいそく)した日常と展望なき人生の結節の数々が冷え冷えと、でもあたかも幸福のような感触を抱かせながら、最終的には救いのない現実をつきつける。 レイモンド・カーヴァーの世界をもっと白々と滑稽にしたような親しき酷薄さがある。 いやはやすごい才能である。 海外の書評ではフォークナーやフラナリー・オコナーやコーマック・マッカーシーなどと比べられているけれど、作中小説を注解する「アデラ」、語りの順序をいれかえる「外交官の娘」、手記と解説からなるメタミステリ「蜻蛉(スネーク・ドクターズ)」など凝った作品も多く、一筋縄ではいかない。

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青春学園ドラマにおける『おこれ!男だ』 『おこれ!男だ』がヒット作の『おれは男だ!』の成功による後継的作品であることは明らかです。 日本テレビが放送した、テレビ映画形式の、いわゆる青春学園ドラマシリーズを挙げてみましょう。 夏木陽介主演の『青春とはなんだ』以来、全部で12作あります。 1965年~1980年まで、15年にわたって放送され続けたわけです。 このシリーズの特徴は、ヒット作があると、次の作品がそれに似せた名前になることです。 『おれは男だ!』が、青春ドラマの金字塔として評価されているのはいまさらる説を要しないでしょう。 東宝制作の『〇〇青春』が、教師を主役とした物語であった一方で、松竹制作の『おれは男だ!』は、小林弘二(森田健作)という生徒が主役でした。 学園におけるウーマンパワーを描いたため、吉川操(早瀬久美)という才色兼備のヒロインが設定されながら、相沢高校剣道部のキャプテン・丹下竜子(小川ひろみ)というライバルとのカップルの方が評判が良くなったこともあり、『』は大ヒットしました。 そこで、そのファンを引き続き囲い込みながら、新たな視聴者獲得の期待をになって作られたのが、『おこれ!男だ』だったのです 『おこれ!男だ』のあらすじ 当時のドラマは半年単位が多かったのですが、多くは4月クールか10月クール開始でした、 『おこれ!男だ』は、それに先駆けて2月に放送開始されています。 4月クールの新番組となる裏番組の前に、放送を開始して視聴率争いを有利に進めたかったのでしょう。 ただ、おれは男だ!の後継的のように見えても、タイトルと主演だけで、いささか内容は異なっていました。 ヒロインとのラブロマンスがなかった 江藤太一(森田健作)が、身寄りのない者、もしくは実家を厄介払いされたり、自分から家出したりした不遇なほしのもとの青少年を受け入れる、神奈川県・三浦半島の私塾『望洋塾』に入るところからドラマは始まります。 受け入れたのは、塾長の内藤武敏、その娘が佐藤オリエ、蕭淑美、石崎恵美子。 蕭淑美は同じ学年ですが、おれは男だ!の早瀬久美と違い、ツンデレではなく、塾生をほんとにコバカにしている風でもありました。 ホントは好きだったことが伺えるシーンもあったかもしれませんが、少なくとも森田健作演じる江藤太一とのラブロマンスは期待できそうにありませんでした。 そこが、おれは男だ!>おこれ!男だ、の第一の理由。 思春期の登場人物で、ロマンスがないなんてドラマとしてつまらないでしょう。 試練が暗い そして、塾生が、土方俊夫(石橋正次)、坂本兵馬(赤塚真人)、高杉一作(江藤潤)、山形三平(沖正夫=森川正太)、西郷四郎(千葉裕)、大久保弘(小田錦之助)、さらに農大6年生の設定で大村六助(岸部シロー)です。 森田健作は「歓迎」儀式として、彼らのフケが入ったスープを飲まされます。 『おれは男だ!』では、女子生徒が多いから、男子生徒のトイレが少なくて困った、という「試練」に比べると、全くシャレにならないいじめです。 爽やかな高校生活の友情や恋心などを期待したファンも、これではついてこれないでしょう。 舞台は私塾か高校か では、舞台は私塾なのかと思いきや、そうとはいえないところがちとややこしい。 私塾というのは、いわば合宿所であり、日中は彼らは高校に行っています。 ここでも、校長(岡田真澄)と腰巾着(三谷昇)にひとくせあり、なにかドラマがありそうでしたが、とくに大したことはありませんでした。 それどころか、「いったい私塾を舞台にしたいのか、高校を舞台にしたいのか、どっちなの?」という視聴者にとっては迷いを感じざるを得ませんでした。 そして、森田健作24歳、石橋正次25歳、田坂都21歳。 え、まだ高校生やってんの? と言わざるを得ない年齢とキャリアです。 田坂都は、『飛び出せ!青春』でいったん高校生は終わって、購買部の店員役でした。 それがまた、セーラー服に戻っているのです。 中村雅俊のように、社会人(われら青春!)から大学生()にもどることはありますが、さすがに高校生は厳しいのではないかという気がしました。 つまり、高校生役には無理があったし、飽きられもしていたのではないでしょうか。 『おこれ!男だ』VS『おれは男だ!』まとめ 『おこれ!男だ』が、『おれは男だ!』の成功を受けて、森田健作と石橋正次の2枚看板でのぞみながらも成功しなかった3つの理由をまとめました。 ドラマを手がけた岡田晋吉プロデューサーの著書(青春ドラマ夢伝説: あるプロデューサーのテレビ青春日誌)では、当時の2人のスケジュールが多忙だったことが不振の原因であり、とくに石橋正次には悪いことをした、と述べられています。 しかし、以上のような点から見て、企画そのものが厳しかったのではないでしょうか。 この枠では、翌年に『われら青春!』が制作されたのを最後に、旧来的な青春学園ドラマは幕を閉じてしまいました。

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