松本 サリン 事件 冤罪。 立憲民主党の新鋭・杉尾秀哉さんは、松本サリン冤罪事件の立役者

「河野さんの無実は最初からわかっていた」黙殺された科学者の訴え【松本サリン事件25年】

松本 サリン 事件 冤罪

提供 自宅に押しかけた多くの記者の前で、事件との関与を強く否定する河野義行さん(右手前から2人目)。 河野さんに対する「犯人視報道」が問題になった=1994年7月30日 (c 朝日新聞社 1994年6月27日深夜、長野県松本市で発生した「松本サリン事件」。 死者8人、重軽傷者約600人という、オウム真理教が起こした無差別大量殺人事件だ。 事件では第一通報者で被害者でもある河野義行さんが長野県警からサリン製造の疑いをかけられ、メディアも河野さんを犯人視する報道を続けた。 河野さんの疑惑が晴れたのは、翌95年3月20日に地下鉄サリン事件が起き、教団幹部が次々と逮捕されてから。 松本サリン事件は多数の被害者を出しただけでなく、警察とメディアによる河野さんへの人権侵害事件でもあった。 実は、事件発生直後に化学の専門家が「河野さんにサリンは製造できない」と指摘していたことはあまり知られていない。 なぜ、科学者の意見は警察の捜査やメディアの報道に生かされなかったのか。 事件発生翌日に、謎の毒ガス物質を「サリン」と分析し、河野さんの疑いを晴らすための現地調査に協力した元国際基督教大(ICU)教授の田坂興亜さん(79)に、事件の教訓を語ってもらった。 * * * 松本市の閑静な住宅街で起きた謎の毒ガス事件から一夜明けた94年6月28日、ICUで化学を教えていた田坂さんの自宅に、朝日新聞の記者から一本の電話があった。 事件について、専門家としての意見を聞きたいとのことだった。 毒ガスの成分は不明。 第一通報者で、事件現場付近に住んでいる河野義行さんの自宅に、複数の薬品が保管されていたことがわかっていた。 記者たちは、薬品の調合で毒ガスが発生する可能性があるか、化学の専門家に見解を求めていた。 記者の話では、被害者を診察した医療機関が「アセチルコリンエステラーゼ」という酵素の活性が低くなっていると説明しているという。 農薬などで使われる有機リンの中毒でみられる症状だ。 ただ、事件の状況を聞いて、有機リン系の農薬による毒ガス発生ではないとすぐにわかった。 田坂さんは、こう振り返る。 「3階や4階でも被害者が出ていたんですよね。 日本で使われている有機リン系農薬は、気化してもそこまで毒性の強いガスが発生することはありません。 なので、記者には『有機リン系農薬の開発の淵源となったサリンやタブンなどが使われたのではないか』と話しました」 事件発生から24時間も経っていない時期に「サリン」に言及した専門家は、ほとんどいなかった。 実際に捜査本部が毒ガスの物質を「サリン」と発表したのは、さらに5日後の7月3日。 この時から、一部の専門家しか知らなかったサリンが、日本で広く知られるようになった。 サリンが未知な物質だったため、化学の専門家が誤った知識をテレビや新聞で紹介したのだ。 「今では考えられないことですが、化学の専門家が『サリンは手作業で製造できる』『バケツの中で混ぜればいい』といった説明をしたんです。 これに警察やマスコミが誘導されて『河野さんが農薬をつくるために薬品を混ぜ合わせてサリンを発生させた』との見方が広がりました。 十分な知識もなく、調べもせずに間違った情報を発信した科学者の責任は重い」(田坂さん) サリンはもともと、1930年代にナチスドイツが化学兵器として開発したものだ。 製造過程では、毒ガスが外に漏れ出ないよう厳重に守られた施設が必要で、手作業では作業者が即死する。 当時は、化学の専門家の間でも、そんなことすら知られていなかった。 松本サリン事件は、警察やメディアの誤った思い込みが河野さんを苦しめた。 捜査や取材が進むなかで「河野犯人説」を強める意見を科学者に求めていたのかもしれない。 「でもね」と、田坂さんは笑いながら話した。 「ICUで使っていた教科書にサリンの記述があって、英語の原著にはサリンの構造式が書かれてあることは知っていたのですが、私もそこまで詳しいわけではなかったんです。 でも、コメントを求められて『サリン』という名前を出してしまったので、記者さんに『間違った知識を教えたなら申し訳ないな』と思ったんですよね」 一度、科学者として話をしてしまった以上、内容に責任を持たなければならない。 そう考えた田坂さんは、あらためてサリンに関する文献を調べた。 「驚きましたよ。 ICUの図書館に、サリン製造法の論文が所蔵されていたんです。 つまり、化学の分野で大学院の学生程度の知識があれば、誰でも製造法がわかる。 自分の身近に毒ガス兵器の製造法が書かれた文献があるなんて、ゾッとしました」(田坂さん) 一方で、田坂さんは文献を読み、化学構造や製造法をきちんと理解できた。 その結論は「一般人にサリンの製造は不可能」。 長野県警は、事件翌日の6月28日に被疑者不詳のまま殺人容疑で河野さんの自宅を家宅捜索していたが、田坂さんは文献を調査した6月末の時点で「河野さんは犯人ではないのでは」と感じていたという。 このことは報道番組でコメントを求められた時にも話した。 7月7日に放送されたNHKの「クローズアップ現代」では、サリンの化学構造について模型を使って説明。 市販されている有機リン系の農薬からサリンを製造することは極めて難しいと説明したうえで、「有機リンの化学の技術と知識、文献などを知り尽くした人でないと合成は不可能」とコメントした。 サリンについて科学的な解説が報道されたことは、事件の方向性が変わるきっかけになった。 番組を見た河野さんの弁護人である永田恒治弁護士が、サリン被害で入院していた河野さんと面会するよう田坂さんに依頼してきたのだ。 都合がついた7月15日に河野さんと初めて会った田坂さんは、こんな印象を持ったという。 「話した瞬間に『犯人ではない』とわかりました。 だって、私に『サリンって何ですか?』って聞くんですから。 それで、持っていった文献を見せながらサリンの構造を説明したんですよね。 専門的知識はないし、とてもサリンのような化学兵器を製造する人には見えませんでした」(田坂さん) 河野さんの著書『「疑惑」は晴れようとも 松本サリン事件の犯人とされた私』にも、この日のことが書かれている。 <病室に見えた田坂氏に、私はてっきりいろいろ根ほり葉ほり聞かれると思っていた。 ところがそんな様子は微塵もない。 逆に、「河野さん、何かお知りになりたいことは」と聞かれる> サリン製造疑惑についてはどうか。 <田坂氏は、素人には作れないということと、事前に押収品リストや家の写真に目を通し、我家に化学器具もないことなどから、状況としては、私には作り得ないと判断していたようだ> 河野さんと面会した夜には、田坂さんは永田弁護士やNHKの記者らとの懇親会に出席している。 その席上で田坂さんは、記者から河野犯人説について問われ、「その可能性はありません」と否定した。 永田弁護士が席を外した後、記者は再び田坂さんに質問をしたが、同じ答えだった。 永田弁護士は自らの著書で、化学の専門家が記者に向けて河野犯人説を否定してくれたことが<非常に心強いものであった>(『松本サリン事件 弁護記録が明かす7年目の真相』)と書いている。 当時は、河野さんを犯人視する報道一色だった。 それでもなぜ、田坂さんは独自の判断ができたのだろうか。 「翌日には自宅にも行って現地調査をしましたが、河野さんが犯人だという証拠は何一つなかった。 それだけのことです。 ただ、その後も長野県警が私に話を聞きにくるようなことはありませんでした。 科学的な意見を軽視したことが、事件の解決を遅らせたのではないでしょうか」(田坂さん) サリンの成分を理解し、現地調査を実施し、サリン製造が不可能であることを確かめる。 科学者だけではなく、報道にたずさわる人間にも当たり前に求められることが実践されていなかった。 田坂さんに続いて河野さんの自宅でサリン製造は不可能だと解説する化学の専門家も出てきたことで、報道も変わりはじめる。 7月30日に河野さんが退院した後は、一部ではあるが、テレビや新聞で河野犯人説にかたよった捜査のやり直しを求める報道が出るようになった。 それでも、初期報道の影響は強く、河野さんは苦しみ続けた。 報道機関がオウムの関与を認識しはじめたのは、94年11月ごろといわれている。 同月、山梨県上九一色村(当時)の教団拠点付近で採取された土を警察庁科学警察研究所が鑑定し、サリンの残留物を検出したからだ。 それでも、長野県警は「河野に年越しそばを食べさせるな」と年内逮捕を目指す指示を出していたという。 田坂さんら科学者の意見は、結局、翌95年3月20日の地下鉄サリン事件を防ぐことができなかった。 田坂さんは、「警察はなぜ、サリンの残留物が検出された時点で教団施設を強制捜査しなかったのか。 それができていれば、地下鉄サリン事件は防げたのでは」と考えている。 オウムがサリンを製造しているとの疑惑が深まるにつれ、田坂さんにも科学捜査研究所から意見を求められることがあったという。 再びサリンがまかれたらどうするのか、防護する方法はあるのか。 電話でも意見を交わした。 奇妙なことも経験した。 電話が終わった瞬間、無言電話がかかってくることがよくあったのだ。 「今考えると、盗聴されていたのかもしれません」(田坂さん)。 皮肉にも、地下鉄サリン事件が起き、オウムに強制捜査が入ったことで河野さんへの疑いは晴れた。 4月21日に朝日新聞が河野さんへのおわびを掲載。 すると、横並びで他紙やテレビ局も続いた。 6月19日には、野中広務・国家公安委員長(当時)が河野さんに面会して謝罪。 自らもサリンの被害をうけた河野さんは、約1年ぶりに名誉回復された。 遅すぎる謝罪だった。 田坂さんは、2002年にICUを退職し、アジアやアフリカの農村リーダーを育てる「アジア学院」(栃木県那須塩原市)の学長に就任した。 世界中から集まった学生たちは、日本で農薬を使わない有機農業を学ぶ。 その技術を自らの国に持ち帰り、飢えの問題を解決する活動をしている。 アジア学院の学長を退任して79歳になった田坂さんは、現在でもブータンやマレーシアに通い、有機農業を広める活動を続けている。 日本人が安い価格で食べ物を輸入して恩恵にあずかっている一方で、アジアやアフリカの農民が農薬汚染で失明したり、神経の病気にかかったりしている。 田坂さんは、河野さんと初めて会った時と同じように、そういった人々の話に耳を傾け、科学的な事実をわかりやすく説明している。 「世界中で使われている有機リン系の農薬は、サリンのように急性の毒性はありません。 それでも、生物の神経に悪影響を与えるという点では同じです。 有機リンが子どもたちの将来に与える影響はわからないことが多い。 日本人も、農薬に汚染された食べ物を大量に食べているんですよ。 なので、日本では有機農業で作られた作物を給食に使う活動もしています」 昨年、教祖の松本智津夫(麻原彰晃)元死刑囚をはじめ、教団幹部13人の死刑が執行され、オウム事件は大きな区切りを迎えた。 だが、サリンは現在でも化学兵器として使われている。 欧州連合(EU)などで人体に悪影響を与える可能性があるとして禁止されている農薬も世界中で使用されていて、その害に悩む農家も多い。 田坂さんにとって「なぜ、優秀な頭脳を持つ人たちが化学を悪用するのか。 どうやれば防ぐことができるのか」という問いは解決していない。 田坂さんは、今でも事件についてこう考えている。 「私にとって、松本サリン事件はまだ終わっていません」 (AERA dot. 編集部・西岡千史).

次の

松本サリン事件 河野さんの現在は?死者に信州大学生?

松本 サリン 事件 冤罪

北海道・東北• 東海・甲信越• 近畿・北陸• 中国・四国• 九州・沖縄• 松本サリン事件 教団は「真理党」を結成し、90年2月の衆院選は松本死刑囚ら25人の教団幹部が立候補したが、惨敗した。 これを機に教団の「武装化」が進んだとされる。 松本死刑囚は同年4月ごろ、幹部らを集めて「全世界にボツリヌス菌をまく」と無差別大量殺人の計画を宣言。 92年3月には自動小銃、93年6月ごろには化学兵器のサリンの製造を始めるよう幹部に指示した。 教団は同年8月ごろ、サリンの生成に成功し、上九一色村でサリン製造プラントの建設に着手した。 松本死刑囚はサリンを使って創価学会の池田大作名誉会長を暗殺するよう指示したが思い通りにいかず、94年5月には教団を批判していた滝本太郎弁護士の車に噴霧したが、狙ったような効果を得られなかった。 次に標的となったのが、長野地裁松本支部の裁判官だった。 松本市では支部道場建設をめぐって教団と住民が対立し、訴訟となっていた。 地裁支部は仮処分で住民側の訴えの一部を認めており、訴訟でも教団が負ける可能性があった。 松本死刑囚は判決直前の94年6月ごろ、サリンの実験を兼ねて裁判官たちの殺害を決意。 教団幹部7人が同月27日深夜、裁判官官舎から約30メートルの駐車場で改造した「噴霧車」から、加熱して気化させたサリンを送風機でまいた。 裁判官官舎で死者は出なかったが、周辺に住んでいた19~53歳の住民7人が死亡し、約600人の重軽症者が出た。 重症者のうち、河野(こうの)澄子さんは意識不明の状態が回復しないままサリン中毒によって2008年8月、60歳で亡くなり、死者は8人となった。 この事件で長野県警は河野さんの自宅を被疑者不詳のまま、殺人容疑で捜索。 第1通報者だった河野さんの夫の義行さんを犯人視する報道も続き、事件報道のあり方も大きな議論を呼んだ。

次の

河野義行

松本 サリン 事件 冤罪

概要 [ ] 原作は、放送部制作のビデオ作品『テレビは何を伝えたか』(第43回ラジオ番組自由部門優勝作品)を元にした、の戯曲『NEWS NEWS』。 に地区で発生したの第一通報者であるに対する「の強引な」と「報道機関の誤報による過熱取材」の実態を描いた作品である。 熊井には、自身の母親が教師を務めていた当時の長野高等女学校(現・)の校長に、河野義行の妻の祖父であるが就任していたという縁があった。 そのため、幼少の頃に河野家に出入りしていた経験から同家の家風をよく知っており、当初より「河野は事件に関わっている疑いが濃厚である」とのマスコミ報道についても「シロ」ではないかと感じていたという。 また、熊井の初監督作品『』での取材経験になぞらえて、犯行は極めて専門的な知識が必要であって「素人」では不可能である点や、確たる証拠がないまま容疑者を自白に追い込む警察の捜査手法が明らかになったことも、熊井を制作へ傾倒させる一因となった。 構想以前から社長のから「社会性が濃厚で、文化的にもレベルが高い作品の構想を考えておいて欲しい」と依頼されていたこともあり、本作品の制作が決定した。 ロケは北深志地区を中心に行われ、の発生源を検証するシーンで使われた池周辺や軒下の撮影は、河野家の自宅敷地内で行われた。 本編では、報道機関の第一通報者に対する取材が誇張されて描かれている箇所がある。 一例として、聴取を終えた第一通報者が警察署から出てくる際に、マスコミに取り囲まれて車に乗り込めないかのようなシーンがあるが、実際は報道陣と警察との間に一定の取材規制が採られており、混乱することはなかった。 ストーリー [ ] 1995年6月上旬、長野県松本市に住む高校生の島尾エミと山本ヒロは、松本サリン事件報道の検証ドキュメンタリーを制作していた。 をはじめとするテレビ局が取材を拒否する中で、ローカルテレビ局「テレビ信州」は取材に応じるという。 報道部長の笹野、そして記者の浅川・圭子・野田の口から誤報につながった原因が語られた。 被疑者不詳の殺人事件として捜査していたは、事件の第一通報者である神部俊夫の自宅を家宅捜索して薬品を押収する。 その中に青酸カリがあったとの警察からのリーク情報から、マスコミは「青酸カリから毒ガスを発生させた」と一斉に報道するが、笹野は過去に誤報を伝えた経験から、裏付けが取れない以上は青酸ガス発生説の報道を取り止めるとの判断を下す。 その後毒ガスが「サリン」と断定。 テレビ信濃では大学教授・藤島から得た「サリンは薬品をバケツで混ぜ合わせて簡単に作ることができる」との証言を放送したが…。 キャスト [ ]• 笹野誠:• 浅川浩司(コージ):• 野田太郎(ノロ):• 花沢圭子(ハナケイ):• 神部俊夫:• 神部の妻:• 吉田警部:• 永田威雄:• 鳥尾エミ:• 山本ヒロ:• 藤島教授:• 大出女医:• 古屋教授:• 鈴木捜査一課長:• 小田営業課長:• 山川刑事:• 神部の長男:• 神部の長女:• 神部の次女:• 佐山記者:• 岡野記者:• 宮本記者:• 柳田記者:• 武山記者: ほか スタッフ [ ]• 監督・脚本:• 製作総指揮:• 協力:、• 音楽:• 音楽補:• 演奏:東京コンサーツ• 撮影:• 照明:• 美術:• 監督補:鈴木康敬• キャスティング:吉川威史• スタント:ナンバーワンプロモーション、オフィスワイルド• 音響効果:• 音楽録音:• タイトル:• 現像:• 後援:、松本市教育委員会• 製作者:豊忠雄• 企画:猿川直人• プロデュース:福田豊治、新津岳人• 製作・配給:日活 備考 [ ]• 本作を出品した2001年の第51回において、熊井は同映画祭の特別功労賞( ())を受賞した。 第11回日本映画批評家大賞では本作が作品賞、遠野凪子が新人賞、製作総指揮を担当した中村雅哉が特別賞を受賞した。 本作において登場する「テレビ信濃」は、映画公開当時の本社(現在は松本総局)が舞台となっている。 脚注 [ ].

次の