建築王騒動。 「常闇トワ騒動」とホロライブ|Vtuberファン|note

鍵王の遺言<前編>

建築王騒動

結局、この一連の騒動は、国王陛下の心に適う后は居なかった、という結論を迎えた訳だ。 元々レンフロが結婚に対して意識が低いということは、ここにいる誰もが解っていた。 とはいえ、個人的に会って話などができればきっと仲を深める事ができる、と信じてここまで来たというのに、ろくに勝負の場も設けてはもらえなかったのだ。 王后の座を望んでいた令嬢達の悔いと心残りは果てしない。 必ずしも結婚しなくてもと思っていた紅菊派の面々とて、もし機会が有ればとは考えていたのだ。 立場は逆の当事者であるレンフロとて、目論見通りに解散に至ったとはいえ、そもそもこんな騒動を起こしたくはなかったのだから、気持ちは何の憂いも無く晴れやかとはいかない。 だから、この状況を晴れやかな気持ちで迎えたのは、アンネリザとのほほんとした表情をしているウィーネの二人だけだろう。 その後、散開となり、レンフロも含め全員が花の館の正面へと移動を開始した。 正確にはまずレンフロが退室して、樅の間脇の部屋に入り、その間に令嬢達が正面前に向かったのだが。 そして、ナナリスに下賜品を預けたアンネリザは、布にくるんだ霊炎の幻灯をレンフロに渡すため、正面近くの小部屋に入る。 部屋には既に先客が居た。 (あら、珍しいわね、女性官僚の方って) アンネリザは役職を判断できないが、官服に身を包んでいるので、事前に聞いていた西斎院管理局の人間だろう。 西斎院というのは主に古くから伝わる王家の宝物を管理している宝物庫の呼び名である。 今回見つけた松明もどきが真に霊炎の幻灯かどうかを判断するための人員だ。 ちなみに、線が細く、小柄だが、彼は男性である。 女性官僚は襟章に月薊がモチーフのものを着ける規定がある。 「あ!」 「あら…」 下座の椅子にかけていた人物は、アンネリザを見ると慌てて立ち上がり、膝に乗せていた書物を床にぶちまけた。 穴に紐を通して束ねていた物を、どうやら確認するために解いていたらしい。 「コレトー手伝ってあげて」 本当なら自分でも拾ってあげたいところなのだが、正装のスカートのボリュームでは床の紙を拾うのは難しいのだ。 遠めにあった紙を集め拾って渡すコレトーに、まだ年若い官僚が何度も首を振る。 「ああぁ、すみませんすみません」 「いえ」 順番を揃えるためだろう、さほど広さのない机に紙を所狭しと並べ、あっちをこっち、こっちをあっちと積み重ねていった。 ただ、レンフロが入室した際に再びぶちまけていたが。 (………官僚でもそそっかしい方っていらっしゃるのね、なんだか親近感) 再び謝りながら拾い集めた紙を、後で揃えますと言って椅子に置き、一枚の紙を手に椅子の傍らに立った彼は、イーゲン・ハツフサと名乗った。 その名乗りを聞いて、アンネリザはようやく自分の勘違いに気付く。 レンフロも到着したので、名残惜しくは思いつつもアンネリザは、机の上に包みを置き、後をハツフサに任せた。 「持ち手が代わっているようですが…石は、霊炎石に間違いありませんね。 大きさ…加工も…記載通りです。 これは霊炎の幻灯で間違いありません」 「そうか」 本物だったと聞いて、アンネリザもほくほくだ。 霊炎の幻灯でなかったとしても不思議な物である事には変わらないので嬉しかったが、こんな珍事でもない限り生涯で目にする事もなかっただろう精霊王の七聖宝を手にできたのだ。 嬉しくない訳がない。 だが、この場で最も喜んでいたのはアンネリザでも、宝物が戻ってきたレンフロでもなく、ハツフサだったが。 「あ、あぁ、ありがとうございます! ありがとうございます! 本当に、ありがとうございます!」 アンネリザとレンフロにぺこぺこと何度も頭を下げる。 代々西斎院管理局勤めのイーゲン家では、霊炎の幻灯紛失時に、ちょうど局長として勤めていたのだ。 建築王からは特に咎めは無かったが、責任を感じて辞職して以降、局長の任を辞退し続けていた背景があった。 「そうだ、姫。 宝物発見の礼を何かしたいのだが」 「え、いえそんな、見つけたのは偶然ですし、それに私に黒真珠の君の部屋の事を教えてくださったのは………」 アヤメだと言いかけて、アンネリザは言葉を止める。 考えてみれば王城内の建物の設計図を持っているというのは、普通の事なのだろうか。 せっかくの好意に仇を返すような事になってはまずい、だが、国王に隠してもまずい。 「あ、あの陛下…ちょっと、その、お話が」 こそっとレンフロに声をかけ、アンネリザに応じる。 その二人の姿にハツフサは内心で首を傾げた。 あまりに自然な動作だったからだ。 まずは遠まわしに設計図の事に触れ、その写しを持っている事が何らかの悪い事になるのかを確認するつもりだった。 だが、あっさりとフランドール家か、と返されてしまう。 「歴代が皆軍務に関わっている関係上もあるが、特に建築王代に側近の一人が居たからな。 設計図の写しも下賜品としていくつかあるのだろう」 「然様でしたか」 「フランドール家の姫が、隠し部屋について教えた、という事だな」 「はい。 私が気にしていたのでご好意で。 あの、私が聖宝を見つけられたのは全てフランドール家の姫様のおかげですので、何かそのお礼を頂けるというお話は、どうかあちらに。 私はもう色々とご褒美を頂いているようなものですし」 「………解った」 レンフロが考え込むように顎に指を当てて首を傾げているのをきょとんと見つめたが、とりあえず肯定されたし良いか、と判断した。 しばらく考え込むレンフロを見つめている事にする。 「すまない。 もう行こう」 視線に気付いたレンフロが、アンネリザの出発時間が遅れるのはまずいと思い出し、慌てて退室を促した。 アンネリザとしては大して気にしていなかったが、促されて抵抗する理由はない。 何の気なしにレンフロと正面玄関に向かう。 取り巻き組とも言うべき令嬢達は既に去っているようだったが、各筆頭令嬢達の保護者方という、お歴々とも言うべき面子が正面玄関に控えているとは、全く予想していなかった。

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ハリー・ポッターと魔法生物の王

建築王騒動

鍵王の遺言<前編> 鍵王の遺言 <前編> by 久城 響伽 「三枝幸蔵?」 火村は聞き返した。 受話器の向こうのアリスがうん、と答える。 「建築家の、三枝幸蔵か? この前亡くなった」 『俗世間の話題には疎い君にしては、よお知っとるな』 「締切り前のおまえよりましだぜ。 で、三枝氏とアリスとどういう接点があるんだ?」 『片桐さん経由なんや』 三枝幸蔵の悲報が齎されたのは六週間前のことだった。 奇抜な建築物を造ることで有名な氏の評価は、日本国内に於てまったく二分されるものだったが、海外では四十代の時既に巨匠と呼ばれるほど高いものであった。 その彼の死。 享年八十三歳。 『静岡に別荘があるそうなんやけど、そこにお招きいただいてん』 「喪も明けていないのにパーティか?」 『四十九日ていうから宴には間違いないとしても、パーティやないわな。 問題は法要の前にする遺言書公開や。 そのために呼ばれてんから』 「どうも話がわからねえな。 相続権もないのに遺言書の開封には立ち合えないだろうが。 それともおまえ、実は三枝氏の落し胤で、相続問題に巻き込まれでもしたか?」 『ふむ。 もしそうやとしたら凄いな。 三枝建築なら売れば金になる』 アリスが言うには、氏が遺した財産のほとんどは現金でも保険金でもなく建築物なのだという。 持ち家が全部で七つ。 招かれたのはその中のひとつ、晩年彼が最期の住まいと決めた岬の家だった。 『残念やけど遺言書の中身はもうわかってんねん。 夫人に半分、子供らに均等。 で、どうやら早々に家を売って金にしたいらしいんや。 その鑑定に呼ばれてん』 「片桐さんがか?」 『正確には推理小説を扱っている出版社が、やな。 三枝建築に賛否両論あったのは、その特殊な趣向に依るものが大きい。 彼は鍵を愛した。 作った本人以外、完璧に数を把握できていないと言われる隠し扉や隠し部屋、数多くの小さな脱出口に執着した。 不要と思わざるを得ない遊びに心血を注いでいた。 それに対して忍者屋敷と嗤う評論家もいたし、同じ言葉で日本の文化の継承者と讃える者もいた。 評価がまっぷたつに分かれていた所以である。 『確かに三枝建築は普通の人が普通の家を建ててもらうには適さヘんかったかもしれんけど、出版社や密室フリーク相手なら垂涎物なんやないか、てことやねん』 火村はキャメルを取り出して口にくわえる。 「で、アリスはどんな役名を仰せつかって行くんだ?」 『なんも。 暇やから行くだけ』 肩に受話器を挟んで煙草に火をつけていた火村が動きを止めた。 「……えらくあっさりしたお答えだな」 『こんなことでもなければ三枝建築なんて見る機会ないし、仕事も丁度一段落ついたし、そのご褒美に連れてってくれるんやて。 『君はまだ忙しいんやろ?』 確かに、と火村は自宅に散らばっている本と書類を見渡した。 しばらく大学が忙しかったのも、あと数日その状態が続くのも間違いない。 「あんまりはしゃいで片桐さんを困らすんじゃないぞ」 『子供やないもん』 言い返してすぐに笑うアリスの声が火村の耳を心地よくくすぐる。 微笑んで受話器のほうへと首を傾けた火村は、もう少し会話を引き伸ばしたくて続きを考える。 「いつからいつまで行くんだ?」 『明日から三日間。 初日は御前崎のホテルに泊まってのんびり観光する予定なんや。 次作のトリックが海と電車が絡むものやから取材旅行を兼ねてんねん。 三枝家には一泊二日やな』 それはそれは結構なことで、と火村は内心呟く。 三日間となると立派な小旅行である。 こっちは碌に会えないというのに片桐は三日間びっちりアリスを独り占めできるのかと嫌味のひとつも出そうになった。 しかしそんなことを言おうものなら、じゃあ今からそっち行くと駄々をこねはじめかねない。 やっともう少しで終わる仕事なのだ。 ここで誘惑に負けてアリスにかまけて、また長く会えない期間ができるという事態は、利口な人間が選択すベきことではない。 賢明な助教授は頭の中の打算計算をするりと隠し、違うことを口にした。 「明日からねえ。 それでさっきから電話片手に荷物を詰めるのに一生懸命なわけだな?」 『な、なんでわかったん?』 びっくりした子供のような反応に喉の奥で笑った火村はゆっくり紫煙を吐き出した。 「神通力」 『インチキっぽい』 「なら、アリスを想うあまりに生まれた超能力」 答えは一拍遅れた。 『……それなら、まあ、及第点の答えやな』 受話器を握ってどんな顔をしていることやらと考えると、火村の顔は弛みっぱなしになる。 「気を付けて行ってこい」 『うん』 嬉しそうな声は、有名建築家の家、しかも密室やそれに準ずるものでできあがった家を見られるということに対して出たものではなかった。 火村に優しい言葉をかけられたのが素直に嬉しいのだ。 長い付き合いでそんなことはわかっている火村は、静かに瞳を閉じる。 「アリス」 呼ぶと、 『ん?』 優しいトーンの声が返る。 もう三週間も会っていない、恋人の声。 「おまえが帰る頃にはなんとか仕事にけりをつけておくようにする。 火村は優しい苦笑を浮かべる。 「行っておいで」 『お土産買うて来たるからな』 はいはいと答えながら肩を竦めた。 気を遣わなくても俺はアリス自身でいいんだぜ、という台詞を飲み込むために。 しかしそれを火村は後悔することになる。 約束通り帰って来る、という他愛なく日常的な、だが何より大切な約束は、他者の手によって捩じられ、違えられることになるからだ。 「映画監督の鳴海志郎さん、建築家の相原さん、珀友社から来てくださった片桐さんと、推理小説家の有栖川有栖さん」 三枝幸蔵の長男、光弘氏は順に客人を家族ヘ紹介した。 四人の客の前には、四人の三枝関係者。 これからゲームか何かの競技か、はたまた巨頭会議でも始まりそうだと考えて、アリスは襟元に指を入れた。 少し息苦しい。 喪主である妻のセイは昔気質の老婦人といった印象だった。 もの静かだがいかにも芯が強そうな、凛とした雰囲気がある。 その隣には光弘の妹の梢。 彼女の隣には次男の達雄。 五十歳の光弘を筆頭に、全員年子だという。 「お兄さん。 本当にこの家、売るつもりなの?」 梢が客人の顔色を窺いながら尋ねた。 「そのつもりさ。 持っていたってしようがないだろう? こんな断崖絶壁に建った不便な家」 三枝幸蔵が最期の家と決めて住んだこの邸宅は、三階建ての古い家だった。 光弘が言う通り崖の上に建てられており、隣と呼べる家は木々の彼方。 不便さを理由に、七つある家の内、まずこれを早々に売ってしまおうということになったのだと彼は説明した。 「七つの中で一番鍵が多いらしいですしね。 どうですか、有栖川さん」 いきなり話を振られ、きょときょと部屋の内装を見回していたアリスは、椅子の上でぴょこんと跳ねそうになる。 「え? なんですか?」 脇に座っていた片桐が助け船を出した。 「推理作家の血は騒ぎませんか? って」 「あ、ああそうですか。 いや、まだ探険もしてへんしよおわからないですが……」 頭を掻きながら言った台詞は、片桐以外の客人の笑いを誘った。 「探険はよかったな」 映画監督が笑いながらアリスを見る。 「有栖川有栖先生がこんなに楽しい方だとは知らなかった」 「本当に」 建築家もなんとか笑いを堪えようと口元を手で隠しつつ言う。 「先生と呼ばれる人はどうもふんぞり返っている印象がありますが、逆ですね。 それを言ったら鳴海監督もですけれど」 「現場以外では監督と呼ばれるのもしゃらくさい。 やめてくれ」 監督は四十代という共通年代の建築家と、一息に距離を詰めた笑みを交わし合った。 アリスだけが廻りの雰囲気についていけない。 片桐のほうへ救いを求めるような視線を送ると、長年アリスのお守りをしている編集者は苦笑を浮かベて耳打ちしてくれた。 「有栖川さんのお陰で場が和んだことは確かですよ。 ご苦労様です」 「……喜んでええんかな、それ」 「立派なあなたの長所でしょ?」 小声のまま笑われたアリスは椅子に座り直す。 なんだか居心地が悪い。 「有栖川先生の意見はご尤もです」 光弘が手を打った。 「探険に出ましょう。 そうしないとこの屋敷の評価額は出ないでしょうからな」 「結局は高値で売りたいってだけですね」 片桐が言った。 一通り屋敷を案内してくれた光弘が、長旅で疲れたでしょうから部屋でくつろいでくださいと言ったのを合図に一同が散った後のこと。 アリスと片桐は二階の書斎にいた。 無断で入ったわけではない。 現在家人が使っている四つの部屋と、自分以外の客が泊まっている部屋以外はいつでも自由に歩き回って結構との許可が下りている。 それには三枝邸ならではの注釈がついた。 但し、いきなり部屋の中に壁や床から迷い込んでしまった人がいても怒り出さないでください。 なにせ抜け穴だらけの屋敷ですので、と。 バルコニーに立って海を見ていたアリスは片桐を振り返る。 「これだけ大きなお屋敷で有名建築家の最期を迎えた家となれば、黙っていても高値になるんやないかて思うけど」 「僕もそう思います。 でも人間欲の皮が伸び放題だと色々策に出たくなるんでしょうよ。 より高くより高く、ってね」 片桐が自分の頬を両手で伸ばす。 皮が薄いのかよく伸びる片桐の顔に、思わずアリスは笑い出した。 「えっらい伸びよるなあ!」 「有栖川さんは伸びませんよねえ。 ああ、やっぱり」 とアリスの頬を抓む。 唇が持ち上がったままアリスが言い返した。 「にゃんで?」 尋ねられ、片桐は言葉に詰まる。 ふにふにした感触の頬を赤くなる前に解放し、 「いやいや、皮下脂肪の差というわけではなくって……あ、火村先生はよく伸びそう」 その図を想像したアリスは吹き出した。 「今頃京都でくしゃみしとるやろな」 「一緒に来られたらよかったですね」 「助教授業もなかなか忙しいようで。 それに火村は無類のミステリ好きというわけではないから、こういう場には来ないと思います」 「フィールドワークでもない限り、ですか」 「縁起でもないこと言わんといてください」 アリスは自分が凭れたバルコニーから下を覗き込んだ。 随分海側に張り出した造りになっている。 真下に同じだけ張り出したバルコニーがあり、その下は海。 断崖絶壁といっても、海までの距離はさほどではないように見える。 「ずっと下なのに、案外近くに見える。 火事の時に飛び降りる人の多くは諦めたからじゃなく、降りられそうだと真剣に錯覚してしまうのが原因だってテレビでやってました」 読心術でも使ったかのように今自分が思ったことを言われ、アリスは目を大きく開く。 そんな様子に気付いた片桐が、海から視線を戻してくれた。 「どうしました?」 「いや……。 察しがええなて思うて。 丁度考えてたこと言うんやもん」 「そうでしたか」 「火村もそうやけど、どうして俺の廻りってそういう人が多いかな」 首を傾げるアリスに、片桐は笑い出した。 アリスが怪訝そうな視線を向ける。 「それはですね、有栖川さん」 やっとなんとか笑いを押えた片桐は噛んで含めるような口調で言った。 「有栖川さんの表情が人より随分素直だからですよ」 「へ? こっちが原因なんですか?」 と自分を指す。 ええ、と相手は微笑んで、 「多数決です。 稀有な結果ふたつがある、ということじゃなくて、原因ひとつが稀有である、ということ」 「んんんー? そういう謎掛けみたいなこと言うとこも火村みたいや」 「それについても謎掛け魔がふたりいるのではなく、謎掛けをさせてしまう人がひとりいるって寸法」 「謎掛けと言えば」 第三者の声に、ふたりは揃って振り返る。 開け放しておいた扉から、建築家がちょいと片手を上げながら入って来た。 「つくづく不思議な人ですよね、この館の主は」 ゆうに六畳はあるバルコニーへと出て海を見る。 「何が不思議なんです?」 アリスが尋ねた。 そろそろ西日がきつくなってきている。 相原は目を細めて海に沈む太陽を見送りながら言った。 「客間だけでも六部屋、その他に主寝室、リビング、ダイニング、バスルームは二つ、展望室に書斎にピアノ室まである。 大豪邸です」 相原は振り返ってふたりを見た。 「奥さんがどこに寝泊まりしているか知ってます?」 アリスと片桐はお互いの顔を見合わせる。 相原は続けた。 「二階の踊り場の突き当たりにある狭い部屋ですよ。 あれはなんと言ったらいいんだろうなあ。 書庫か物置というものでしょうか。 天井が異様に高いから、玄関前の吹き抜けに沿った作りになっているのはわかるんですが、このバルコニーほどもないんじゃないですかね。 小さい簡易べッドを置いたら他はもう家具らしい家具は置けませんよ」 「仕事部屋なんじゃなくてですか?」 片桐が言った。 「三枝セイさん、執筆業をされてますよ。 書庫兼仕事部屋ってことはないんですか?」 「本書いてはる人やったんですか?」 アリスが少々驚いて尋ねると、片桐は頷く。 「こちらに来る前に先輩に教えてもらいました。 正確には翻訳家で、出した本も三冊だけ、しかも今から六十年以上前のことです」 「六十年!」 建築家も初耳らしく興味深そうに相槌を打った。 「ええ。 戦前、まだ女学生だったセイさんが童話を翻訳したんです。 三匹の子豚、赤頭巾、狼と七匹の子山羊。 生憎セイさんが望んだ、一般の子供たちへの普及というのはされなかったんですが、いわゆる特権階級の人の間では持て囃されたそうです。 まあそうこうしている内に二十歳前で三枝氏と結婚してしまい、戦争が始まって、それどころではなくなったのですが」 「女学生時代に本を出すなんて才女やったんやなあ」 「それが結婚して専業主婦か。 三枝氏も罪なことをしたものですね」 建築家は再び海を見下ろす。 「叡智溢れる才女は家の中へと閉じ込められ、愛してくれる人もいず、狭い狭い部屋で助けてくれる人を待っていた。 お伽話と違うのは、現実ではヒーローの到着が遅れてしまっていることでしょうか」 夕食の後、アリスは散歩に出ることにした。 片桐を誘ったが、仕事のチェックをしなきゃいけないんでとノート型パソコン片手に謝られた。 外ヘ出ると涼しい風が吹いている。 坂道を下り、砂浜へ出て海を見た。 もう少しで満月になるだろうふくよかな月が海ヘ光を落としている。 晴天での月明かりではあったが、それでも海は暗すぎた。 アリスは無意識に自分の肘を抱く。 勿論あたりに人影はない。 「……阿呆みたい」 小さく笑って腕を解く。 振り切るように大きく伸びをしたアリスは、そのまま頭上の崖に建っている建物を見上げた。 上から見た時に感じた通り、やはり崖はさほどの高さはない。 あってもせいぜいビルの四階分くらいだろう。 屋敷の灯りがアリスの顔を照らすくらいには近いのだ。 鍵王と呼ばれた建築家が最期の時を迎えるのに選んだ家。 それはあたりの闇の中でただひとつの光として、ぽっかりとそこに在った。 重い樫の正面玄関の扉を押し開くと、絨緞を敷きつめた広いエントランスホールになる。 アリスは目の前に現れた大きな柱時計を見上げた。 今日ここに着いた時には、思わず、わあ、と言ってしまった代物である。 前面だけでもゆうに大人三人が手を繋がないと覆えないくらいの幅があり、高さは吹き抜けになっている二階の天井につくほど高い。 左側の壁に埋め込まれるような作りになっているのだから安定性は重視されているのだろうが、それでも薄暗いホールの中でそびえ立つ巨体はのしかかって来るほどの迫力である。 数秒時計の化け物を見上げたままだったアリスの顔がひょこんと動いた。 手を打つまでもなく、何か思い付いた表情。 吹き抜けを左手に見下ろす幅広の階段を上がると、真正面に廊下が広がる。 ここを通ると書斎や客間がある。 しかしアリスは廊下ヘは行かず、左に曲がった。 先には行き止まりの壁があるだけの踊り場だが、その途中によく見ないと見落としてしまうほど他の部屋のものに比ベて質素な扉がある。 「なるほど、丁度柱時計の横か……」 小さく呟いて、考え込むように唇に拳をあてた。 さっき下で見た柱時計は夜の八時を指していた。 主の奥方の部屋を訪問するには微妙な時間のような気がして、気後れしたのだ。 その時、 「有栖川くん」 いきなり肩を叩かれ、アリスはひゃっと叫び声を上げた。 振り返ると映画監督が目を大きく開いて右手を空に置いていた。 「びびびっくりしたっ。 鳴海さんー、よしてください」 「こっちこそびっくりしたよ。 何してんだ?」 「いや、ちょっと」 と肩越しに小さな扉を見やる。 監督は、はあん、と頷いた。 「奥さんの部屋か。 見学?」 「もうお休みなら悪いかなて思うて」 「夜は早く休むって話だったよ、娘が言うには。 今夜は諦めたらどうだ?」 親指で廊下のほうを示されて、アリスは映画監督の後に続いた。 奥方の部屋から随分離れてから彼は語り出した。 三人の子供、どれも養子だってさ」 「え?」 思わず聞き返した時、やおら監督が壁をぐいっと押した。 動かないはずの壁が一部、奥へと引っ込む。 驚いているアリスを促して中ヘと足を踏み入れた。 工事現場の足場に使われるような狭さの階段を上る。 「展望室に繋がっとるんか……」 床を持ち上げながら這い出したアリスは、硝子張りの見覚えのある部屋に立っていた。 三階の展望室。 斜めに切った天井と、壁一面が硝子張りであるこの部屋は、書斎の上に位置し、岬からの海を見渡せる。 「私もさっき気付いたんだ。 本当にからくり屋敷だね」 「鳴海さん、さっきの話、ほんまですか?」 「養子って話? 本当だよ」 映画監督は月明かりだけの展望室で腕を組む。 「そうか、有栖川くんと片桐くんだけが光弘さんと初対面なんだっけな。 私や相原さんはそれぞれもともと光弘さんとは知り合いだったから聞いていたんだ。 三人とも遠縁だから血は繋がっているらしいが、それもえらく薄いらしい。 ついでに養子縁組したのはつい三年前。 条件は、結婚していない親戚ってこと」 「結婚していない?」 「これからも結婚の意志はないということも誓約書にサインさせられたってさ。 まあそれっぽっちで三枝の不動産をもらえるならということで、あの三人が名乗りを上げた」 映画監督は苦笑する。 「途端に顔が変わったね。 推理作家としては見過ごせない話かい?」 「映画監督さんに言われるとは思いませんでした」 アリスも苦笑を返した。 「人に言わせりゃひとでなしってところだな。 まあ同じ穴のむじなだ、内密ってことで頼むよ。 さて、光弘さんによると兄弟仲はそこそこにいいって話だし、遺産分与も取り決めてあったってことだからお家騒動もないって言うが、義理とはいえ母親をあんな物置みたいな部屋に寝泊まりさせているあたり、どうかと思うがね」 「そんなに酷いんですか?」 「狭い。 ゲストルームが十二畳以上あるっていうのに、その半分もないんだよ。 おまけに窓もなく、天井だけがただ高い。 本当に寝るだけの部屋だね、ありゃ」 建築家と同じことを言う。 「奥さんも文句言えばいいのに……あ、それよりも、どうして旦那さんはそれを黙認してたんです? ずっとここに一緒に住んでたんでしょ」 「最期の一年は夫婦揃ってここに住んでた。 娘息子たちはさすがに仕事があるから月に一度くらいしか訪問しなかったらしいがね。 おかしいのは鍵王殿なんだ」 映画監督はがりがりと掌で頭を掻く。 「その頃から奥さんの部屋はあそこだった」 アリスは目を瞠った。 「なんでです? こんなに部屋数があるのに」 「噂好きだなんて思わないでくれよ。 これも聞いたことなんだが、夫婦仲は冷めていたって話だ。 そもそも鍵王は海外で名を馳せていた。 自然、あっちで生活する期間が長い。 しかし奥さんは同行したことは一度たりともないんだ。 新婚当初からね。 一説には代々資産家だった三枝家との政略結婚だったとも言われてるぐらいだから、愛情なんかもとからなかったかもしれんな。 二人の間に子供はできなかったわけだし」 アリスは昼間会った老婦人を思い出していた。 一言も喋らずにじっと座っていたせいか、凛とした姿勢が印象的な割にはあまりにも気配の薄い女性。 何十年も蔑ろにされてきたゆえのことなら、いたたまれないほど哀しいことである。 「それが本当なら、ようやく夫の呪縛から解放された女性ってことになる。 子供たちは七つの家の内いくつか売り払って、その金を母親交えて均等に分けることになるらしいから、老後は安泰ってわけだ」 「鳴海さん、この家買うんですか?」 「さすがに買えないさ、こんな豪邸。 興味本意で誘われるまま見に来ただけ。 まあ、いつか撮影に使わせてもらえるくらい気前のいい買い手がつくことを祈りたいね」 と彼が笑った時、何かが下から漏れ聞こえて来た。 アリスは監督と目を合わせる。 そして同じものを聞いたとお互いの表情で確認した後、その正体を探るために耳を澄ませた。 声は床下から響いていた。 アリスはつい先刻、自分が押し上げて開けっぱなしにしてあった扉から聞こえる声ヘと近付いた。 声は、おおいと言っている。 「なんだろう」 監督が言う。 じっと耳を傾けていたアリスは、やがて眉を寄せて呟いた。 「……片桐さんや」 「びっくりしましたよ」 片桐はだらしなく椅子に座りながら言った。 彼の部屋に急行したふたりは、壁の中から叫び続ける片桐の声を頼りにいろんなところを押したり引いたりして悪戦苦闘する羽目になった。 部屋に隣接している小さな洗面台の脇の壁を押すと、片桐が転げ出て来たのでよかったが、 「なんであんな狭いとこにいたんだ?」 監督が尋ねる。 アリスも頷いた。 「水を飲もうとしてバスルームに行ったんです。 で、こうやって蛇口を捻ってですね、何気なく左手を壁についたら開いたんです。 開いたらやっぱり入っちゃうでしょう?」 「そしたら出られなくなったんですか? そんな危ない仕掛けもあるんや……」 発見されなかったらおおごとになりかねない状況である。 「外鍵が自動的にロックされる仕組みみたいです。 内側に小さな数字合わせの鍵がありました。 でもどうやっても数字が解らなくて、しょうがないから叫んでいたんですよ」 「部屋と部屋はさすがに昔の建物だけあって壁が厚いから防音効果は高いが、隠し通路は案外繋がってるんだな」 監督の言葉にアリスも同意した。 部屋の前の廊下では聞こえなかった片桐の声が、隠し通路を介してなら随分離れているはずの展望室まで聞こえたことから、それは明らかである。 「風穴効果と同じかもしれませんね。 でもよかった。 片桐さん、あさってから仕事やて言うてたでしょ。 帰られへんかったら怒られるとこやったね」 「ええ。 仕事も終わったし、もう今夜は余計なところに触らず眠ります」 「会社にはなんて報告をするつもりだい?」 監督が悪戯っぽく尋ねる。 片桐はうーんと考えて、 「素晴らしいからくり屋敷です、入札の際には是非参入を、ってところですかね」 と苦笑いを浮かべた。 翌日もいい天気だった。 「海が目の前にあるのに泳がないのも間抜けじゃないですか?」 午前中一杯、アリスと共に屋敷を探険していた片桐が気の抜けた声で言った。 「まだ泳ぐには早いと思うけど」 「あれ? どっか行くんですか?」 扉のところで振り返ったアリスは照れたように笑う。 「散歩がてら、林の向こうまで」 「買い物ですか? でも夕食の後にはお暇するのに」 「まだ夕食まで五時間ちょっとあるし」 「車出してもらいます? 歩いたら近くの商店まででも二十分以上はかかりますよ。 何買うのか知らないけど」 「……原稿用紙」 ぽつりと告白したアリスは頭を掻いた。 「パソコン持って来ればよかったって大後悔してます。 せやから車はええです。 歩きながら構想練りたいんで」 「へえ。 創作意欲が湧きましたか。 それだけでもここへ来たメリットはありますね」 にこにこ言われて、慌てて手を振る。 「まだ海のものとも山のものともわかりませんて」 「わかるんです」 編集者はきっぱり言い切った。 「なんたって僕は有栖川さんの担当ですから」 アリスは顔を赤らめて、そんな自分を恥ずかしがって、指鉄砲を作った。 片桐へと向ける。 「そんなうまいこと言うてくれても何も出ませんからね」 片桐はホールドアップした。 にんまりと笑い、 「いえいえ出ますとも。 作品という宝物が」 アリスは廊下を歩いていた。 左に曲がり、階段を降りようとしてふと右側を見る。 踊り場の行き当たり、昨夜訪ねそびれた奥方の部屋。 少し迷ってから、そちらヘ向かった。 ノックしようとした時、扉は内側から開いた。 「あ」 思わず一歩後ろに下がる。 目の前に老婦人が立っていた。 「し、失礼しました。 アリスはそれが初めて聞く老婦人の声だと、変なことを感心していた。 「部屋を見にきたのね」 と彼女は半身になった。 入れということだと気付いて、気後れしながら部屋へと入る。 聞いた通りだった。 真っ昼間から電灯をつけていなければならない、縦長の小部屋。 しかもその電灯も変に黄色くて、アリスは古い映画でも観ている気分になる。 部屋にはカウチともべッドともとれる小さな寝具があった。 そのほかには作りつけの本棚だけである。 但しそれは軽く四メートルはある天井まで続いている。 昨日、建築家が言った書庫か物置かという台詞を思い出した。 成程、確かに。 「ここの他の部屋はお使いにならないんですか?」 隣に立つ小さな老婦人へ尋ねる。 聞こえなかったのかと心配になるほど長い沈黙の後、彼女はそっと答えた。 「この部屋を与えられたから、ここにいるだけです」 そしてゆっくり顔がアリスヘと向いた。 「あなたたちはいつ帰られるのです?」 静かな迫力にアリスは息を飲んだ。 「すみません。 夕食後には帰りますので」 すると老婦人はふと目元を和ませた。 僅かすぎる表情の変化は、ともすれば見落としそうなほど微かであったが。 「お客人に言うことではありませんでした。 予定通りお帰りになられるのならよろしい」 口調はさっきとまったく同じである。 しかしアリスはほっと胸を撫で下ろしていた。 気難しいわけでも怒っているわけでもないということがわかったから。 「失礼しました。 ありがとうございます」 廊下ヘ戻ろうとした時、老婦人がアリスの肘に触れた。 「どちらに?」 「あ、玄関へ」 「ならこちらから」 壁を押す。 細い階段が下ヘと続いていた。 「……また鍵なんか出てきませんよね」 「鍵で出られなくでもなったかしら?」 老婦人は微苦笑を浮かべた。 「主人の書斎に掲げられている額縁の書の謎を解く気はないの? 作家さん」 「え?」 なんのことです、と言いかけたアリスは、違うことを口にした。 紹介された時、確かに推理作家の、と光弘はアリスを表したが、よもや彼女が覚えているとは思わなかったのだ。 無頓着に見えたのに、ということが老婦人に対する興味にすり代わった。 「作家といえば、奥さんのほうが大先輩でいらっしゃいます」 彼女は一度だけ早く瞬きをした。 「随分古いことをご存知ですね」 「編集者の片桐さんが教えてくれたんです。 童話の翻訳をしてはったって」 「そう。 文学が好きだったから」 ひっそり言った老婦人はこの話題について、それ以上の追求を望まなかった。 隠し扉に手を添えることで、アリスに退出を促す。 「主人が遺した鍵の答え。 誰も解けなかった、いいえ、解こうとするほどお客様は招かなかったけれど、気が向いたら御覧なさい。 ……でも」 と一度言葉を切り、 「大抵の鍵は順に、1、2、3と押せば開くはずです」 アリスは目をしばたいた。 「そんな簡単な数字やったんか……」 「閉じ込めるのが目的ではないから」 そらそうやなと納得したアリスは老婦人に礼をすると、階段を降りて行った。 案の定下まで降りるといかつい数字錠がついている。 教えられた通りの数を合わせたら、ピンという軽い音がした。 押し開いた先は玄関のエントランスホールだったのだが、驚くベきは出て来たところであった。 アリスは後ろを振り返り、そして首を後ろへ倒す。 大きな柱時計の側面が、扉になっていたのだ。 言い争いはその日の夕食時に起こった。 「個人に売るよりも、プロダクションに話を持ちかけてはどうかと」 映画監督がそう言った頃は穏やかな夕食だった。 建築家も同意する。 「土地を含めた評価額は二億円弱といったところでしょうが、何よりこの趣向に凝った建物の長所を有効に利用しない手はありませんな。 そうすれば二倍以上の値になるはずだ」 「片桐さんのご意見は?」 光弘に促され、片桐は口を開いた。 「博物館にするつもりはないんですか? とうちの会社は言ってましたけどね。 実際僕も見て廻って、このお宅だと三枝建築博物館にぴったりだと思います」 「有栖川さんはどうです」 アリスは一瞬言葉に詰まった。 「確かにおもしろい家やと思いますけれど……、三枝幸蔵さんはどういうお考えやったんですか?」 三枝家の面々の動きが止まった。 ややして光弘が言う。 「遺言書の言葉だけがすべてではない」 一同は静まり返った。 梢が隣に座っている母親に問い質す。 「お母さん、どういうことです?」 「遺言書を書き換えたなんてことが」 と次男の達雄も口を挟む。 老婦人は焦らすようにゆっくり首を振った。 「公の文書は変わっていません。 ずっと前から決めていたことを違える人ではなかった。 だけどあの人が何をしようとしていたのか、おまえたちは知らない。 人生、思う通りにいくばかりではないということも知らなければね」 「引っ掛かる言い方だな、お母さん」 光弘が言った。 口調が苛立っていた。 「私たちがこの家を売ることが気に入らないならそう言ってくれればいい。 そんな言い方をされると、お客さんたちが誤解するじゃないか。 まるで私たちを遺産目的の略奪者みたいに言うのはやめてください」 老婦人は膝に広げていたナフキンをテーブルに戻した。 「お客さんには明日の遺言書開封までここにいていただくことにします。 そして父の筆跡で明確に財産を我々へと遺したことを確認していただく」 招かれた四人はお互いの顔を見合わせた。 「そんな勝手は許しません」 初めて老婦人が強い口調で言った。 負けじと光弘も声を高くする。 「勝手はお母さんのほうだ! 私たちにも立場というものがある。 何もお客さんの目の前で開けなくてもいい。 別室で待っていてもらって、弁護士立ち合いのもと後で見ていただくだけだ。 皆さん、よろしいですね」 彼はナフキンを叩き付けるようにして部屋を出て行った。 「困りましたね」 片桐が言った。 客人たちは書斎へ集まっていた。 「僕、明日本社に戻らないといけないんです」 「私は自由業だからいられるよ。 相原さんは?」 監督に振られ、建築家は腕を組む。 「僕ももう一日くらいなら事務所をあけていても平気です。 有栖川さんはどうです?」 三人に見られ、アリスは両手を振った。 「俺も自由業ですから」 言ってから火村の顔が浮かんだ。 今晩中に帰ると言ってあったが、仕方ない。 まだ仕事が終わっていない可能性のほうが高いし、と自分を納得させて息をついた。 「しかしとうとう来たね、お家騒動」 監督が言った。 「こりゃますます物語めいてきた。 なあ、有栖川くん」 「実際に起こると胃がキリキリしますね」 「紙の上とは話が違いますか?」 建築家に尋ねられて、アリスは首を竦めた。 「それはそうです」 「でも私たちができることなど何もない。 ただ光弘さんの気が治まるための道具だ。 遺言書を確認したら帰れる」 ふとアリスは婦人の言葉を思い出した。 部屋をぐるりと見渡すと、ひとつの小さな額縁が目を引いた。 傍に寄って見る。 せいぜい大人の両手分の大きさしかないその中身は、書き慣れた筆記体だった。 口の中で英文を二度読み上げたところで、片桐がアリスの背後に廻る。 同じく額縁の中を見て、 「なんて書いてあるんです? ええと、もしも助かるなら……?」 「助かりたければ、かの数字を示せ。 我にとって唯一であり、力ある数字を。 「昼間奥さんに聞いたんです。 この書を見なさいって。 鍵の答えらしいんですけれど」 「推理作家さんの本領発揮の場面じゃないですか」 「そうだな。 有栖川くんの出番だ」 無責任な期待の顔に、アリスは少々慌てる。 「よしてください。 すぐになんでも解決するのは……」 架空の探偵くらいなもの、と言いかけて止まる。 頭の中に、アリスにとって何よりリアルな火村が現れて。 「とにかくこれが解けなくても平気ですよ。 奥さんが教えてくれはったんですが、数字錠は上から順に123て押せば大概の扉なら開くんやそうです」 三人はぽかんと口を開いた。 「それって鍵の役目になってないじゃないか」 「俺もそう言いました。 そしたら、閉じ込めるのが目的ではないからて」 「そりゃそうでしょうけど」 建築家は何やら納得できかねる表情で唸る。 「鍵王ともあろう人がそんなに簡単な鍵合わせでいいんでしょうか」 「本当の数字は別にあるんじゃないですか?」 片桐が言い出した。 ほら、と額縁の中の書を指し示し、 「この文から、本物のマスターナンバーは別にあるってことはわかります」 「マスターナンバー?」 首を傾げる監督に、建築家が説明した。 「マスターキーと同じようなものです。 その施設内のどんな鍵でも開けてしまう。 三枝建築で多く用いられている数字合わせのロックは、正規の答えである数字の他に、マスターナンバー対応であるところが珍しいところなんです」 「それは初耳だ。 私も数字合わせの錠というものは、答えがひとつだけかと思ったよ。 成程ねえ、それをいえばマスターキーだって不思議な存在だもんな」 アリスは三枝建築について盛り上がる三人から離れ、もう一度三枝幸蔵が遺した謎を見詰めた。 決しておおらかではない、小さく揃った几帳面な字は、鍵王の名に沿うように彼の痕跡としてそこにあった。 片桐はその日の夜のうちに、予定通り三枝邸を後にすることにした。 玄関まで老婦人セイ以外のみんなに見送られ、アリスが車まで、とついて行く。 「すみません、有栖川さん」 「なんで謝るんですか」 「いや、お預かりしている有栖川さんを一人で置いておくのも何かなーなんて」 「誰から預かってるて……」 笑いかけて、アリスは口を噤んだ。 それに気付かない片桐は、タクシーの窓から伸ばしていた首を引っ込めて笑う。 「本当ですね。 じゃ、お先に」 車が走り去った後、アリスはそっと息を吐き出した。 ふと何やら寂しくなった。 片桐は八時半の新幹線で東京へ帰るという。 アリスも同じような時間の新大阪行きの新幹線に乗るはずだった。 一緒に帰ればよかったなどと今更愚にもつかないことを考えたのは、屋敷の雰囲気に対して、息が詰まるものを感じていたからだ。 家に帰りたくない子供のように海岸を一人で散歩したアリスが玄関を開いた時、柱時計は午後十時を指しており、ホールは暗かった。 ここの家人はとっくに休んでいる時間である。 客人二人も部屋でおとなしくしていることだろう。 なるべく物音を出さないよう気を付けて扉を閉め、階段を上がる。 ふと、中ほどまで来た時、アリスは動きを止めた。 階段の手摺から身を乗り出して下を見る。 一階は広いエントランスホール。 その他には扉を開けて続く廊下。 食堂、台所、バスルーム、物置などがある。 誰か風呂を使っているのかと思いながら、その足音がエントランスホールに近付いて来るのを待った。 現れたのはセイであった。 しかし風呂上りとは思えないほどきちんとした身なりである。 彼女は部屋の四隅を歩き回り、カーテンをめくってみたり、キャビネットに触れたり、玄関の扉を手でさすっていた。 アリスは眉を寄せる。 それは何かの儀式のように見えたからだ。 最後に、二階の廊下からの微かな灯りしか届かない薄暗いエントランスホールの中央に立った老婦人は、じっとそのまましばらく動かなかった。 アリスはそっと階段を上りきって自室へと引き込むことにする。 原稿用紙に向かおうとしたが、何か引っ掛かって集中力がそがれてしまう。 諦めてべッドに仰向けになった。 ここ二日間あったことを反芻する。 鍵王が遺したもの。 妻と家。 そして血が繋がらない子供たち。 誰も解かなかった鍵王の書の謎。 なぜ老婦人はあの狭い部屋から出ないのか。 なぜ鍵王は八十を越え、愛情を注ぐという理由からでもなく養子を迎えたのか。 そしてセイが今になって遺言書に反発する発言をしたのも謎だ。 潮騒が聞こえる。 いつの間にかアリスは謎の海の先にある眠りへと沈み込んでいった。 to Joint project.

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『新型コロナウイルス騒動』の違和感 13)スウェーデン

建築王騒動

『新型コロナウイルス』の報道が始まるとともに、すい星のごとくワイドショー界に登場した岡田晴恵先生(白鷗大教授・医学博士・元国立感染症研究所員)。 あれ以来この人の顔を見なかった日がない。 しかもTV各局、どこを映しても呼ばれている。 業界用語で言う「数字を持っている」タレント文化人だ。 あまりの出番の多さに、機嫌の悪い時もあり、不確かな情報を発信してしまったこともあった。 出始めのころは、日本人の新型コロナに対する認識も浅かったため、無用な不安をあおっていると批判されていた。 しかし、解説がわかりやすい、風貌がなじみやすいなど、視聴者の人気は高い。 (フェリシモのコーディネイトも巻き髪も、僕には判定が付かないので、発言の内容だけを検証したい。 ) 僕がこの人を初めて見たのは、『ホンマでっか!? TV』だった。 知らない人のために『ホンマでっか!? TV』の説明をすると、明石家さんまがMCの番組で、コンセプトは「世の中で国民が話題にしている物や噂のエピソードでホンマでっかなこと」を発信するというもの。 』という姿勢でお楽しみ頂けると幸いです」と断りが入る。 という方向性で、ちょっと変わり者の各界の学者・研究者がゲストで情報を発信するバラエティー番組だ。 僕は個人的にフジテレビは好きではないのだが、この番組は録画してでも見ている。 お気に入りは武田邦彦先生、池田清彦先生、植木理恵先生、中野信子先生などで、著書もかなり持っているし座右の書として読み返してもいる。 ) 岡田晴恵先生がそんな『ホンマでっか!? TV』に初登場したのが1月22日。 収録はもっと前だっただろうから、まだ新型コロナの話題は出ていない。 その後、2月になってからはほとんど出ずっぱりだったと思う。 僕は朝に『羽鳥慎一モーニングショー』を見ている。 仕事がシフト制というの関係で毎朝ではなく半分しか見られないが、以来レギュラー化していた岡田先生の発言はほぼ把握している。 だいたい次のような主張をしていた。 1・感染防止のためには、とにかく『PCR検査』の数を増やさなければならない。 2・そのためには、『発熱外来』を病院以外に設立して、専門にPCR検査をするようにする。 病院の駐車場とか学校や公共施設に臨時に作ればいい。 3・そこで抽出された『陽性者』は症状によって分別する。 重症者は病院・集中治療室、軽症者は専門の治療施設、無症状者は借り上げたホテルなどの専門施設に分けて、非感染者と分離隔離をする。 軽症者は大部屋でいいので、病院ではなく体育館とかアリーナを使えばいい。 要約すればそんなことだったと思う。 つまり早期の『検査』と『隔離』が必要だと訴えていたのだと思う。 それは一貫していたと思うし、岡田晴恵先生とモーニングショーの方針が一致したため続けられたのだろう。 この考え方は『ダイヤモンドプリンセス号』の対応を見ていて、僕が感じた政府の方針の違和感と、こうすべきだと思った方策と同じだ。 参照: さらに、治療薬が見つかってからは、軽症者には『アビガン』を医院で処方できるようにする、ということが加わった。 これにも同感した。 『モーニングショー』を見てたから、テレビ朝日の思想に汚染されて同じ考えに至っているということもあるかもしれない。 さきほどフジテレビはほとんど見ないと書いたが、還暦を超えると俄然テレビ朝日が多くなる(僕だけ?)。 (日テレも『金曜ロードショー』以外は見てないなあ。 ) 普通にテレビをつけるとテレビ朝日が映り、「科捜研の女」や「相棒」の再放送を見ている。 以前見た回でも、犯人を覚えてないので問題なく何回でも見れる。 テレビ朝日でないときはTBSが多い(日曜の午前はずーとTBS。 ところが、この2局は左翼系らしい。 テレビ朝日はそれこそ朝日新聞系だし、TBSは毎日新聞系で、両紙は左翼系に分けられる。 一方フジテレビは産経新聞系で、日テレは読売新聞系で右翼系になる。 僕らの世代は反政府的思想が根底にあるのは否めない。 (反戦フォークソング世代だ。 ネットではかなり幅を利かしているが、彼らは自分で考える力がないのかと思う。 今回岡田晴恵先生のYoutubeを探した時、岡田晴恵批判の画像が多いことの驚いた。 ほとんど犯罪者扱いの映像だ。 ネトウヨの特徴である。 問題の本質を論ずるのではなく、過去の瑕疵を暴いて有名人をディスることに労を割く。 人を蔑む行為は、発言者自身も貶める。 TVでの岡田先生の発言内容は、感染学者としてはまっとうなものだと思う。 自分は感染学者であるからその専門の立場で発言するので、経済についてはそちらの専門家が意見を述べてほしい、ということは常に言っていた。 その感染症の専門家としての知識の真偽を確かめるべく、急ぎ3冊の著書を読んだ。 『怖くて眠れなくなる感染症』PHP研究所2017年。 『エボラvs人類 終わりなき戦い』PHP研究所〈PHP新書〉、2014年。 『強毒型インフルエンザ』PHP研究所〈PHP新書〉、2011年。 急いで読んだので、今読み返しているのだが、全体的に評価すると、感染学の教科書で学ぶようなことをわかりやすく書いているという感じ。 特に著者の偏見があるようには見えないが、その分独自性に欠けるともいえる。 強毒性インフルエンザもエボラウイルス病も感染症対策は同じで、新型コロナウイルスとほとんど重なる。 感染症というのはそういうもので、立ち向かう方法は同じなのだ。 人類は2000年以上感染症と戦ってきたのだ。 TVの解説も躊躇なくそれが使えたわけだ。

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