ドラゴンクエスト ユア ストーリー 興行 収入。 ドラゴンクエスト ユア・ストーリー【映画】評判や評価は?酷評の嵐?

ドラゴンクエスト ユア・ストーリー【映画】評判や評価は?酷評の嵐?

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やつはこう語る。 ウイルスの制作者はゲームなど「虚無だ」と考えており、だからこそこういうVR世界を破壊するのだと。 ビアンカやゲレゲレや息子たちはただのデータとなり、消え去ってゆく。 さて、なぜこのようなラストシーンが観客の怒りを買うのだろうか。 第一に、本作はドラクエ5の映画化ではなかったからである。 ドラクエ5の映画化作品であれば改変はあれど原作に忠実であったほうが無難だ。 そ もそも、『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』はなぜ最後にそんな無茶苦茶なメタフィクション構造を持ち出したのだろうか? その理由はとてもシンプルで、ゲームを遊ぶゲーマーを肯定したかったのだ。 そして、これこそ『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』が嫌われる第二の理由だ。 確かに、「ゲームは時間の無駄」だとか「遊んだところで何も残らない」と言われることがある。 しかし、仮にそうだとしてもドラクエ5をはじめとするゲームで冒険した時間は大事なものである……というのが制作陣の語るメッセージだ。 いわばラスボスのウイルスは「ゲームを否定する世間」で、主人公は「ゲーマーたち」。 それを戦わせて、ゲーマーを勝たせる。 構造的にはゲーマーを褒め称える作品になっている。 だが、それこそゲーマーにとって禁忌であった。 なぜなら、ゲーマーは別に制作陣からの称賛や愛を求めていなかった。 それどころか、むしろこういう愛は唾棄すべきものだと考える人も多いからだ。 そもそもたいていのゲーマーは、ゲームがほとんど時間を潰すものでしかないことはわかっている。 だが、楽しいから遊ぶのだ。 そんなことはきちんと理解しており、「ゲームが無駄かどうか」なんて議論自体もすでに過去のものとなっている。 世間的にもゲームは受け入れられており、子供のおもちゃだったのは今や昔の話だ。 たとえばファミリーコンピュータが発売されたのは1983年。 つまり40代くらいならば一度はゲームの熱気に当てられ、それが立派な思い出になっているわけだ。 電車やバスに乗ればお年を召した方がスマホでゲームを遊んでいたって別にそこまでおかしくないだろう。 もしくはゲームはeスポーツとなりそれでプロとして活躍する人もいるし、有名タイトルは20周年だの30周年だのを迎えているわけだ。 もはや「ゲームは無駄」だの「ゲーム体験は虚無」だのと言う人は減り続けており、全世代がゲームを楽しんだことのある人になるのも時間の問題、という状況なのである。 ゲーミフィケーション、ボケ防止、シリアスゲーム……。 社会で役に立っているゲームの要素も、例を挙げればたくさん出てくるだろう。 しかし、制作陣のゲーム観はファミリーコンピュータやスーパーファミコンくらい、つまり昭和か平成初期の価値観で止まっていると思われる。 そして元号が令和に変わってようやく制作陣も「あれ? もしかしてゲーマーってそんなに悪くないんじゃね?」と気づき、この映画を作ったのではないか。 そしてゲーマーに向けて『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』というラブレターをしたためた。 だがそれはゲーマーにとって、熟成させたゴミをプレゼントされるようなものだった。 そのゴミは、30年くらい前であれば適切だったかもしれない愛なのだが。 『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』はドラクエ5の映画化の機会を損失させ、時代遅れの語る価値もないテーマをぶつけ、一方的な愛を投げつける。 たとえるならば自信を失っていない人たちに「君たちは自分を肯定していいんだよ!」と言うような、失礼ともいえる行為である。 しかも、これは悪意ではないところが最悪だ。 受け入れられないストレートな愛ほど厄介なものはない。 かつてスーパーファミコンでドラクエ5を楽しんでおり、いまもゲーマーと自称しても間違いないであろう私は、『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』を見て興奮し、腕が震えた。 なぜかって? 制作陣がゲームに対し無理解であるということを作品に込め、あまつさえそれを日本中の劇場で公開するというおぞましいことをしでかしたのだから! こんな愚かな行為、そう滅多に見れるようなものではない。 ゲームは時間の無駄、ゲームはしょせん子供の遊び……、そんなふうに思い込んでいる人がゼロだとはまだ言い切れないだろう。 なんだかんだいっても、ゲームというのは比較すれば若い文化なのである。 かつてドラクエ5を遊び楽しんだが、それを周りにあまり話せなかった。 ゲームは好きだが周囲の人たちはゲームに対して冷たい態度をとっている。 そんなことを感じている人たちにとって、『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』は刺さる可能性がある。 制作陣の愛を正面から受け止められれば、この映画で涙を流すことも可能であろう。 とはいえ、『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』がゲーマーを怒らせる作品であることも間違いない。 そもそも「ゲームキャラは作り物に過ぎない」というメタ構造はゲームでも手垢のついた手法で、よほどうまくやらなければ汚点となる。 それをなんら工夫なくストレートにやってしまうとは、ゲーマーに対する多少の理解はあってもゲームに対する理解はなく、無意識のうちに見下していることが透けて見えるのだ。 本作の制作陣からゲーマーに送られたラブコールはとても愛情深く、同時に極めて不愉快で愚かに感じられる。 もはやこの作品そのものが「制作陣とゲーマーのすれ違いラブストーリー」なのである。 渡邉卓也()はフリーランスのゲームライター。 好きな作戦は「みんながんばれ」。

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映画『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』公式サイト

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この記事では、『 ユア・ストーリー』について、私の所感を記述させて頂きます。 はじめに もう1年以上前のことになりますが、本作の製作が発表された日、私は驚きの余り当ブログにおいて記事にさせて頂きました。 そして、その後実は私自身もこの映画を観ていましたので、なんだかこの過去記事がこれまで投げっ放しになっているようで気になっていました。 また、私はお金を払って観た映画を否定するのは個人的に好きではありません。 さらに、奇特な方しかお読みにならないとはいえ、ブログという公の場で批評するのも好きではありません。 しかし、すでに本作は公開を終えDVD化までされていますし、この映画を真に観たいとお考えの方はすでに観られたタイミングになったと思います。 ですから、投げっ放しになっている過去記事のアンサーをそろそろ書いても良かろうという風に気が向きましたので、端的にではございますが記事にさせて頂くことにしました。 ご了承頂ければ幸いです。 我々ゲームファン ファン 思い出のを立派な映画にして頂いてありがとうございました。 などはどうだったか 2019年のランキングを確認しますと、『 ユア・ストーリー』は、 41位 14. 2億円 となっています。 これは 善戦とも言えると思いますし、「 あれだけプロモーションしたのだから当たり前」「 夏の映画で、しかもあの『 』を題材にしているのにコケ過ぎ」とも言えると思います。 ただし、映画の出来 あるいは観た人がおもしろいと感じるか は必ずしもとリンクしないことは言うまでもありません。 例えば今ほどの2019年ランキングで申しますと、『 ユア・ストーリー』のすぐ側に、 39位 プロメア 15億円 がおりますが、こちらは大変高評価の映画です ここでは語りませんがめっちゃ面白いです。 すでに公開を終えDVD化までされていますが、お読みになりたくない方はご注意ください。 JBの所感 まずに関しましては、人それぞれの思い入れがあると思いますし、あるいはプレイしたことがないという方もいらっしゃると思います。 私自身の『』に対しての想いにつきましては過去記事に記述させて頂きましたので、ここでは省略させて頂きますが、つまりファンの中でもとりわけ思い入れが強い方が多いのが『』だと考えます。 私のような ニワカではありますが ファンという立場から、心情的に本作に対する印象というのは厳しいものにならざるを得ない部分もあろうかと思います ただし、別に本作に限らず、たとえどんな映画でも全くの予備知識無しに完全にフラットな気持ちで観ることも少ない気もしますが。 しかしながら、先日DVDで再度観賞していた際、傍目で観るでもなく観ていた妻 未経験者 も「 何、今の?引いたんだけど。 」と言っていましたし、というか客観的に観てそうだろうと私も思いますので、 必ずしもコアなファンだけが騒ぎ立てているというわけではないと考えます。 私の思いでは、に 少なくとも当時は 自由度を重んじていたさんが自由度を犠牲にして思いっきりストーリー性に振ったのが『』であろうということは前回記事に記述させて頂いたところです。 つまり映画1本にまとめるのは非常に困難だったと思うのですが、原作を踏襲しつつ良好にまとまっていると思います。 もちろんダイジェストのようなきらいはありますし、いささか不可解な設定や展開 例えばがいないと辿り着けなかったラストダンジョンに応援部隊が来るとか もありますが、文句を言えるレベルではないと思いますし、本作を観れば『』のストーリーが概ね理解できるのではないかと思います。 これだけでも今回の映画化の功労は十分あろうかと存じます。 ただし、あくまでプレイ済みの私の感覚ですので、無意識に記憶でストーリーを補完していることは否定できません。 よって、全くをお知りでない方がご覧になった場合はその限りではないと思います。 配役は声優で固めて欲しかった 本作は非常に豪華な配役となっています。 一流どころばかりですので、もちろんそれぞれ素晴らしかったのですが、それでもやはり配役はプロの声優陣で固めて欲しかったという思いを禁じざるを得ません。 私のようなど素人観客でも、声を聴けば即時「あ、これは声優さんじゃないな」とわかります。 やはり声の演技には、ただ演技が上手い下手だけではない要素があります 実写映画や舞台の演技に動きや表情が加わるように。 プロモーション上の問題など諸事情があろうかと思いますが、出来る限りお願いしたいところであり、そう感じている人も少なくないのではないかと思います。 クライマックスについて 「大人になれ」 「さあ現実に戻りなさい」 クライマックスで問題の展開になった際にが口にする言葉です。 それにしてもこの展開…私などは本作の評価が荒れてから観賞した口ですので心の準備ができていましたが、公開当初に劇場観賞された方はさぞ驚かれたことと思います とは言え私も「一体何が起きるのか…?」と初見は恐かったです。 それまで普通に戦っていたのに、突如のキャラコードを偽装したというコンピュータウイルスが現れ、展開がガラリと変わるのです。 それどころか、正に一緒に戦っていた妻や子どもをはじめ、全てのキャラやフィールドも停止し、消し去られるのです。 つまり、主人公がいた世界はの世界でなく、プレイヤーがいる『』の世界だったというオチなのです。 奥さんである、息子のアルスをはじめ仲間達が突如ピタリと停止し、真っ白にされ、消し去られる。 これって下手な演出より余程グロテスクです。 その後の主人公とのやり取りです。 もちろん、何も私を含め観客も「思い出のゲームは本当に現実だ」なんて思ってはいません 当然ですが。 あるいは、このような展開、演出をファンが納得するはずが無いと気付けたはずです。 本作ラストのメッセージを発するのであれば、でなくオリジナル作品でやるべきであり、人の思い出の上に立って発するべきものではありませんでした。 ゲームをプレイすることのマイナス面、もっと言えば、ゲームが教育に悪影響だとか、凶悪犯罪の背景にゲームの影響があるだとかは、 実際に影響があるのかは私はわかりませんが もう10年も20年も前に散々言われたことです。 『家庭用ゲーム機』の性能、機能が向上し、単なるゲーム機とは呼べないこの時代です。 さらには かつてゲームなどしていなかった大人でさえも、ゲームの1つや2つはやっているという人が非常に多い時代です。 メッセージそのものも、今の時代にしっくりくるものではなかったと言わざるを得ません。 いろいろと記述させて頂きましたが、ではどんな展開なら良かったのかと問われると、それはわかりません。 あそこで普通に本物のが出てきて、皆で倒してハッピーエンドという映画なら良かったかというと、その限りでは無いと思います。 もちろん、映画は「誰もが納得する形で作らなければならない」などということはありませんし、むしろ前衛的で挑戦的であって欲しいです。 しかしながら、今回ばかりは酷評の嵐となってしまっており、これが本作の結果であると受け止めざるを得ないところかと思います。 は何周もしましたが、最後にプレイしたのはのリメイク版が発売された時だから…あれ?いつだろう? ということでお調べしたところ、 1992年9月27日 版 2004年3月25日 版 2008年7月17日 版 2014年12月12日 版 が、それぞれ発売されているようです。

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なぜ『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』は賛否両論の問題作なのか?それはゲーマーに対するふかい愛があるからだ

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やつはこう語る。 ウイルスの制作者はゲームなど「虚無だ」と考えており、だからこそこういうVR世界を破壊するのだと。 ビアンカやゲレゲレや息子たちはただのデータとなり、消え去ってゆく。 さて、なぜこのようなラストシーンが観客の怒りを買うのだろうか。 第一に、本作はドラクエ5の映画化ではなかったからである。 ドラクエ5の映画化作品であれば改変はあれど原作に忠実であったほうが無難だ。 そ もそも、『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』はなぜ最後にそんな無茶苦茶なメタフィクション構造を持ち出したのだろうか? その理由はとてもシンプルで、ゲームを遊ぶゲーマーを肯定したかったのだ。 そして、これこそ『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』が嫌われる第二の理由だ。 確かに、「ゲームは時間の無駄」だとか「遊んだところで何も残らない」と言われることがある。 しかし、仮にそうだとしてもドラクエ5をはじめとするゲームで冒険した時間は大事なものである……というのが制作陣の語るメッセージだ。 いわばラスボスのウイルスは「ゲームを否定する世間」で、主人公は「ゲーマーたち」。 それを戦わせて、ゲーマーを勝たせる。 構造的にはゲーマーを褒め称える作品になっている。 だが、それこそゲーマーにとって禁忌であった。 なぜなら、ゲーマーは別に制作陣からの称賛や愛を求めていなかった。 それどころか、むしろこういう愛は唾棄すべきものだと考える人も多いからだ。 そもそもたいていのゲーマーは、ゲームがほとんど時間を潰すものでしかないことはわかっている。 だが、楽しいから遊ぶのだ。 そんなことはきちんと理解しており、「ゲームが無駄かどうか」なんて議論自体もすでに過去のものとなっている。 世間的にもゲームは受け入れられており、子供のおもちゃだったのは今や昔の話だ。 たとえばファミリーコンピュータが発売されたのは1983年。 つまり40代くらいならば一度はゲームの熱気に当てられ、それが立派な思い出になっているわけだ。 電車やバスに乗ればお年を召した方がスマホでゲームを遊んでいたって別にそこまでおかしくないだろう。 もしくはゲームはeスポーツとなりそれでプロとして活躍する人もいるし、有名タイトルは20周年だの30周年だのを迎えているわけだ。 もはや「ゲームは無駄」だの「ゲーム体験は虚無」だのと言う人は減り続けており、全世代がゲームを楽しんだことのある人になるのも時間の問題、という状況なのである。 ゲーミフィケーション、ボケ防止、シリアスゲーム……。 社会で役に立っているゲームの要素も、例を挙げればたくさん出てくるだろう。 しかし、制作陣のゲーム観はファミリーコンピュータやスーパーファミコンくらい、つまり昭和か平成初期の価値観で止まっていると思われる。 そして元号が令和に変わってようやく制作陣も「あれ? もしかしてゲーマーってそんなに悪くないんじゃね?」と気づき、この映画を作ったのではないか。 そしてゲーマーに向けて『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』というラブレターをしたためた。 だがそれはゲーマーにとって、熟成させたゴミをプレゼントされるようなものだった。 そのゴミは、30年くらい前であれば適切だったかもしれない愛なのだが。 『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』はドラクエ5の映画化の機会を損失させ、時代遅れの語る価値もないテーマをぶつけ、一方的な愛を投げつける。 たとえるならば自信を失っていない人たちに「君たちは自分を肯定していいんだよ!」と言うような、失礼ともいえる行為である。 しかも、これは悪意ではないところが最悪だ。 受け入れられないストレートな愛ほど厄介なものはない。 かつてスーパーファミコンでドラクエ5を楽しんでおり、いまもゲーマーと自称しても間違いないであろう私は、『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』を見て興奮し、腕が震えた。 なぜかって? 制作陣がゲームに対し無理解であるということを作品に込め、あまつさえそれを日本中の劇場で公開するというおぞましいことをしでかしたのだから! こんな愚かな行為、そう滅多に見れるようなものではない。 ゲームは時間の無駄、ゲームはしょせん子供の遊び……、そんなふうに思い込んでいる人がゼロだとはまだ言い切れないだろう。 なんだかんだいっても、ゲームというのは比較すれば若い文化なのである。 かつてドラクエ5を遊び楽しんだが、それを周りにあまり話せなかった。 ゲームは好きだが周囲の人たちはゲームに対して冷たい態度をとっている。 そんなことを感じている人たちにとって、『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』は刺さる可能性がある。 制作陣の愛を正面から受け止められれば、この映画で涙を流すことも可能であろう。 とはいえ、『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』がゲーマーを怒らせる作品であることも間違いない。 そもそも「ゲームキャラは作り物に過ぎない」というメタ構造はゲームでも手垢のついた手法で、よほどうまくやらなければ汚点となる。 それをなんら工夫なくストレートにやってしまうとは、ゲーマーに対する多少の理解はあってもゲームに対する理解はなく、無意識のうちに見下していることが透けて見えるのだ。 本作の制作陣からゲーマーに送られたラブコールはとても愛情深く、同時に極めて不愉快で愚かに感じられる。 もはやこの作品そのものが「制作陣とゲーマーのすれ違いラブストーリー」なのである。 渡邉卓也()はフリーランスのゲームライター。 好きな作戦は「みんながんばれ」。

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